5000万円で「夢のFIRE」から3年。物価高と社会保険料の罠に落ちた50代夫婦の誤算

読み物(転落家族)

※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。

「今月もまた、予定額を大きくオーバーしている……」

朝の静かなリビングで、タブレットの家計簿アプリを見つめながら、慎吾(51歳)は深いため息をついた。隣でコーヒーを飲んでいる妻の優子(49歳)も、その表情を見て言葉をのみ込んだ。

かつて都内のIT企業でエンジニアとして猛烈に働いていた慎吾と、デザイン会社に勤めていた優子は、共働きでコツコツと資産を形成。3年前に目標だった5000万円の資産額に到達したのを機に、夫婦そろって早期リタイア(FIRE)を決断した。満員電車や終わりのない納期から解放されるため、物価が安く自然豊かな地方都市へ移住。のんびりとした理想のセカンドライフが始まるはずだった。

しかし現在、夫婦の口座残高は想定をはるかに超えるスピードで減り続けている。「労働からの解放」という夢の裏側に潜んでいた現実は、ひたひたと2人の精神を削り始めていた。

地方移住=生活費が下がる、という幻想

移住前のシミュレーションでは、生活費は「毎月25万円」でおさまる計算だった。家賃も安く、野菜などの物価も都内より低いはずだ。資産5000万円を年利回り4%前後で運用しながら切り崩せば、資産を長持ちさせながら十分に逃げ切れる。そう確信していた。

だが、現実は甘くなかった。最大の誤算は「地方特有の維持費」と「急激なインフレ(物価高)」のダブルパンチだった。

「スーパーの野菜は確かに安いけれど、肉や魚、日用品はむしろ都内のディスカウントストアより高いなんて思わなかったわ」

優子がこぼす通り、生活必需品の値上がりは地方でも容赦なく家計を直撃した。さらに、地方生活で必須となる「車」の存在が大きい。購入費だけでなく、ガソリン代、自動車税、車検代、冬用タイヤへの交換費用など、息をしているだけで年間数十万円の維持費が飛んでいく。

また、会社員時代には給与から天引きされていて実感が薄かった「国民健康保険料」と「国民年金保険料」の負担が、無職となった夫婦に重くのしかかった。結果として、毎月の総支出は予定の25万円を大きく超え、32万円にまで膨れ上がっていた。

減り続ける残高がもたらす「精神的貧困」

「このままだと、あと15年で資産が底をつくかもしれない」

慎吾は夜、布団の中で何度もスマートフォンの電卓を叩くようになった。毎月約32万円の支出に対し、完全にリタイアしているため勤労収入はゼロ。頼みの綱である投資信託などの金融資産を取り崩して生活費に充てているが、生活費が膨らんだことで「取り崩し額」が想定を超えてしまっている。

もちろん、運用益が出ている月もある。しかし、相場が少しでも停滞すると、生活費を引き出した分だけ純粋に元本が目減りしていく。「資産が減る恐怖」は想像を絶するものだった。

節約のため、夫婦の趣味だったカフェ巡りや国内旅行の回数は激減した。暖房費を浮かすために厚着をして過ごし、スーパーでは常に特売品ばかりを探す日々。お金の不安から些細なことで口論になることも増え、夫婦の関係にも隙間風が吹き始めている。

「こんなことなら、もう少しだけ東京で働いておけばよかったのかな……」

誰にも縛られない自由を手に入れたはずが、今は「減り続ける数字」という見えない鎖に縛られている。そんな皮肉な現実に、慎吾は言葉を失った。

データが示す「物価高と長寿リスク」の残酷な現実

こうしたFIRE計画のほころびについて、ファイナンシャルプランナーのA氏は公的データを踏まえてこう警鐘を鳴らす。

「総務省の『家計調査』や『消費者物価指数』を見ると、食料品や光熱水費といった生活に直結する支出が近年大きく上昇しています。5000万円という資産は決して少なくありませんが、50代前半から完全に勤労収入をゼロにしてしまうのは、現代の『インフレリスク』を考えると非常に危険です」

A氏によれば、FIREを達成した後に家計破綻の危機に陥るケースには、ある共通点があるという。

「それは『社会保険料の負担』と『想定外の出費(車の買い替え、医療費、家の修繕など)』を見誤っている点です。とくにインフレ下では、運用益だけで生活費の増加分をカバーするのは難しくなります。完全なリタイアではなく、月10万円でもいいので夫婦でゆるく働きながら資産寿命を延ばす『サイドFIRE』の形をとるべきでした」

貯金残高の画面をそっと閉じた慎吾は、地域の求人情報サイトを開いた。しかし、50代でブランクがあり、地方都市での好条件の仕事は驚くほど少ない。時給1,000円のアルバイト募集の文字を眺めながら、理想の老後とは何だったのかと、慎吾はただ立ち尽くすしかなかった。

【コラム】FIRE後の「国民健康保険料」の落とし穴 会社員を辞めて早期リタイアする際、多くの人が見落としがちなのが「国民健康保険料(国保)」の負担です。会社員時代は健康保険料を会社が半分負担してくれていましたが、国保になると全額自己負担となります。とくに退職した翌年は、前年の高い給与所得をもとに保険料が計算されるため、収入がゼロになったにもかかわらず年間数十万円の請求が来て驚愕するケースが後を絶ちません。また、株式や投資信託の売却益(特定口座の源泉徴収あり)は原則として国保の算定基礎には含まれませんが、確定申告の方法によっては保険料が跳ね上がることもあるため、税制と社会保険の深い知識が不可欠です。

【慎吾・優子夫婦の家計簿(毎月)】

  • 家族構成:夫51歳、妻49歳(地方移住・2人暮らし)
  • 世帯収入:0円(労働収入なし。金融資産の取り崩しのみで生活)
  • 毎月の支出:322,000円
  • 賃貸家賃(駐車場代込み):85,000円
  • 食費(外食・日用品含む):65,000円
  • 水道光熱費:22,000円
  • 通信費(スマホ2台・ネット):10,000円
  • 車両費(ガソリン・車検等の積立):30,000円
  • 国民年金保険料(2人分):34,000円
  • 国民健康保険料(前年所得等から月割算定):36,000円
  • 医療・生命保険料:10,000円
  • 夫婦こづかい・趣味代:20,000円
  • 雑費(交際費・被服費など):10,000円
  • 毎月の収支
  • マイナス 322,000円
  • (※すべて資産からの取り崩し。予定していた毎月25万円の取り崩し額を7万円以上オーバーしており、このペースだとインフレと相まって予定より10年以上早く資金が底をつく計算に)

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