※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
小野彩(42歳)がスーパーのレジで財布を開くたびに、感じるようになった違和感がある。買い物カゴの中身は変わっていないのに、レシートの合計がじわじわ上がっている。
「今日も4,800円か」
週2回のまとめ買いを担当している彩は、帰りの車の中でレシートを眺めるのが癖になっていた。豚こま切れ肉、卵、牛乳、食パン、もやし、キャベツ、カレールウ。いつもと同じ定番の食材ばかり。なのに、1回あたりの金額が目に見えて増えている。
小野家は夫の拓也(44歳・メーカー営業職)と彩、中学2年の長男海斗、小学4年の長女美月の4人家族。拓也の手取りは月310,000円、彩のパート事務の手取りが月85,000円で、世帯の月収は395,000円。郊外の持ちマンションに暮らし、車は1台。多くはないが、堅実にやりくりしてきた自負があった。
レシートの束が語る5年間の変化
きっかけは、彩が家計簿アプリの「食費」グラフを半年分まとめて見たことだった。
2026年に入ってからの月平均は73,000円。彩は一瞬、入力ミスを疑った。2020年ごろ、同じアプリに記録していた食費は月57,000円前後だったからだ。
子どもたちは当時より大きくなった。海斗は部活帰りにごはんを2杯おかわりするし、美月も給食だけでは足りない日がある。食べる量が増えた分はあるだろう。それにしても、月16,000円の差は大きかった。
「ねえ、最近スーパーの値段、上がってない?」
夕食後、拓也にそう切り出した。食器を洗いながら拓也が振り向く。
「言われてみれば、コンビニのコーヒーも前より高くなった気がするな。でも月1万6千円も増えてるのか」
「うん。アプリで見たらそうなってた。量を増やしてるつもりはないんだけど」
彩は言葉を続けた。チョコレートの値段がいつの間にか変わっていたこと。以前は1枚150円台だった板チョコが200円を超えていること。子どもたちのおやつ代だけで、月に1,000円以上増えた感覚があること。
拓也は黙って聞いていた。
消費者物価指数が映す「食のインフレ」
彩が感じている違和感は、統計にもはっきり表れている。
総務省の消費者物価指数(2026年5月分)によると、食料全体の指数は128.7(2020年=100)。2020年を基準にすると、食料品の価格は5年あまりの間に約29%上昇した計算になる。
年ごとの動きを見ると、上昇は段階的に進んでいる。2022年に104.5だった指数は2023年に112.9へ跳ね上がり、2024年は117.8、2025年には125.8に達した。食品の値上げラッシュが連続して押し寄せた結果、価格水準は5年前とはまったく別の景色になった。
個別品目で見ると、上昇の大きさがさらに際立つ。2026年5月時点の前年同月比で、コーヒー豆は37.9%上昇、チョコレートは25.8%上昇。菓子類全体でも8.1%、飲料は8.7%上がっている。弁当は11.4%、生鮮魚介は7.5%の上昇だった。
彩が感じた「同じものを買っているのに高くなっている」という実感は、正確に物価の動きと一致していた。
「削れるところがもうない」
家計全体を見ると、小野家の状況はこうなっている。
リアル家計簿:小野家(夫44歳・妻42歳・子2人)
収入
- 夫の手取り(メーカー営業職):310,000円
- 妻のパート手取り(事務・週4日):85,000円
- 収入合計:395,000円
固定費
- 住宅ローン(変動金利・3LDKマンション):92,000円
- 管理費・修繕積立金:28,000円
- 通信費(スマホ3台・Wi-Fi):12,000円
- 車1台(ローン完済・任意保険・駐車場):18,000円
- 夫の生命保険・医療保険:8,000円
- 妻の医療保険:3,000円
- 長男の学習塾(週2回・数学英語):25,000円
- 固定費小計:186,000円
変動費
- 食費(外食含む):73,000円
- 日用品:8,000円
- 電気・ガス:16,000円
- 水道:5,000円
- ガソリン:10,000円
- 子どもの衣服・学用品:8,000円
- 夫婦小遣い(夫20,000円・妻10,000円):30,000円
- 変動費小計:150,000円
特別費(年間支出の月割り)
- 自動車税・車検・タイヤ交換(年間約100,000円の月割り):8,000円
- 固定資産税(年間約120,000円の月割り):10,000円
- 帰省・家族旅行(年間約120,000円の月割り):10,000円
- 冠婚葬祭・家電買い替え(年間約60,000円の月割り):5,000円
- 特別費小計:33,000円
貯蓄
- 教育資金積立:15,000円
- 一般貯蓄:5,000円
- 貯蓄合計:20,000円
支出合計:389,000円
収支:+6,000円
収支は月6,000円のプラス。一見すると黒字だが、月次ではギリギリの状態にある。特別費まで含めると余裕はほとんどない。車の故障や家電の買い替えが重なれば、この6,000円は簡単に消える。
「食費を60,000円に戻せたら、月13,000円浮くんだよね」
彩はそう言って、自分でもため息が出た。わかってはいる。だが、同じものを同じ量だけ買って73,000円なのだ。節約するなら、何かを減らすか、何かをやめるしかない。
おやつの値段と子どもの笑顔
彩がまず減らしたのは、自分のコーヒーだった。毎朝ドリップしていた豆を、週の半分はインスタントに切り替えた。コーヒー豆の価格は前年比で37.9%上がっている。200gで800円だった豆が、今は1,000円を超えていた。
次に目をつけたのは、子どもたちのおやつ。美月が好きなチョコレート菓子は、以前なら2袋で300円台だったものが500円近くになっている。前年比25.8%の上昇と聞けば、数字としては納得がいく。だが、帰宅した美月が「今日のおやつなに?」と聞いてくる笑顔を思い浮かべると、おやつを減らすとは言いにくかった。
「お菓子は、うちで作ったらどう?」
ある日、彩は思いついたように美月に言った。休日にホットケーキやクッキーを一緒に焼けば、材料費は市販のお菓子を買うより安くなる。美月は「やりたい」と目を輝かせたが、彩の本音は節約だった。そのことは言わなかった。
海斗は最近、弁当のおかずが少し減ったことに気づいていた。
「今日の弁当、なんか卵焼きしかなくない?」
「ちゃんとウインナーも入ってたでしょ。あとブロッコリー」
彩は笑って返したが、以前なら入れていた冷凍の唐揚げが1袋500円を超えるようになり、使う頻度を減らしていたのは事実だった。
年間192,000円の「見えない増税」
食費が月16,000円増えたということは、年間で192,000円の負担増になる。家族旅行1回分、あるいは長男の塾代の8か月分に相当する金額だ。
拓也の給料も多少は上がっている。2020年に比べれば手取りは月15,000円ほど増えた。だが、食費の上昇だけでその大半が帳消しになっている。電気代やガソリン代、日用品の値上がりまで含めれば、生活の実感としては「むしろ苦しくなった」というのが正直なところだった。
「来年、海斗が受験でしょ。塾の時間を増やしたいって言ってるんだけど」
彩がそう切り出したのは、週末の夕食後だった。拓也は「増やすといくら?」と静かに聞いた。
「週3回に増やすと、月35,000円。今より10,000円増える」
ふたりは黙った。月6,000円の黒字が、来年にはマイナスに転じる計算になる。ボーナスで補填できなくはないが、それは教育資金の積立に回すはずのお金だった。
「食費を絞るしかないのかな」
拓也が言った。彩は小さくうなずいたが、心の中では「これ以上、どこを」と思っていた。
まとめ
小野家の食費は、2020年の月57,000円から2026年には月73,000円へ、約16,000円増えた。年間にして192,000円。品目を見ればチョコレートが25.8%、コーヒー豆が37.9%、菓子類が8.1%、弁当が11.4%上がっている(いずれも前年同月比、2026年5月時点)。食料全体では2020年比で約29%の上昇だ。
物価の上昇は「誰にでも等しく降りかかる、見えない増税」とも言われる。小野家の場合、食費の増加分だけで昇給のほとんどが吸収された。食卓に並ぶ料理の種類を工夫し、おやつを手作りに切り替え、自分のコーヒーを我慢する。静かな努力で家計を守っている彩のような人は、おそらく少なくない。
消費者物価指数(CPI)全国 2026年5月分(総務省統計局)
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