※本連載は2026年時点の統計・公開情報にもとづく未来予測フィクションです。記事中の金額はすべて現在(2026年)の貨幣価値・物価水準に換算しています。
夕方、階段を上がる足音が途中で止まった。しばらくして、封筒を抱えた女性が入り口から顔をのぞかせた。
「予約って、要りますか」
「要りません。どうぞ」ミチルさんは椅子を引いた。
沢口佳穂(26歳)は、封筒を膝の上に置いて座った。角が丸くなるまで持ち歩いたらしく、紙がやわらかくなっている。
「会社の帰りなんです。総務をやっています。入社と退職の手続きと、給与計算と、細かい問い合わせを全部」
「1人なので」沢口は笑った。「それで、資格を取ろうと思ったんです」
封筒の中身は、社会保険労務士(しゃかいほけんろうむし)試験の願書だという。3年かけて受かるつもりで、講座も申し込んだ。
「なんですけど、去年の秋に、うちの手続きが全部システムに切り替わって」
沢口は封筒の口を少し開けて、また閉じた。
「わたしが半日かけてやっていた入社と退職の届出、ボタンを押すと出るようになったんです。それを見てから、願書を出せなくなってしまって。……この資格、あと20年もつのかなって」
「その願書、締め切りはいつですか」
「今月末です」
ミチルさんは端末に職業名を打ち込んだ。
「では、まだ間に合いますね。この仕事、正直に言いますね」
2045年時点のAI代替率
(編集部予測)
70%
「7割です」ミチルさんは言った。「AI代替率(編集部予測):70%。沢口さんの心配は、当たっています。届出を作ることも、役所に出すことも、給与を計算することも、2045年には人の手を離れました」
「……やっぱり」
「ただ、7割で止まりました。残り3割の中身が、この仕事の本体です」
2026年、この仕事の現在地
厚生労働省の職業情報提供サイト、job tagによると、社会保険労務士は「企業などの依頼により労働法令や労働社会保険の手続きなどを代行するとともに、労務管理などの指導にあたる」職業だと説明されています。書類をつくって役所に出すこと、年金の相談に応じること、職場の安全衛生を指導することが主な仕事です。
同じサイトに載っている数字を並べます。
- 就業者数:2万1780人(2020年〈令和2年〉国勢調査)
- 平均年収:1134.6万円/平均年齢:39.4歳/労働時間:月162時間(いずれも2025年〈令和7年〉賃金構造基本統計調査)
- 有効求人倍率:0.89/求人賃金:月28万円(いずれも2024年度〈令和6年度〉)
平均年収の1134.6万円は、資格の名前から想像するより高い数字に見えます。この数字の読み方は、後半のコラムで扱います。
資格の取り方も確認しておきます。試験に合格したうえで名簿に登録するまでが一続きで、登録には2年以上の実務経験か、事務指定講習の修了が必要です。働き方の特徴としては、多くが独立開業で定年がないこと、書類の提出期限に合わせて残業や休日が不規則になることが挙げられています。
2045年、何がこの仕事を変えたか
変化は3つに整理できます。
1つめ。届出が、書類の作成ではなくデータの受け渡しになりました。2045年には、会社の勤怠と給与のデータから、必要な届出をエージェントAIがそのまま組み立てて送ります。人が様式を選ぶ場面はありません。
2つめ。法改正を追いかける作業が自動になりました。改正があれば、その日のうちに影響を受ける顧問先と条文が一覧で出ます。制度を覚えていること自体の値段は、ここで大きく下がりました。
3つめ。これが残り3割をつくっています。労働と社会保険は人の生活に直接ひびく分野として高リスク領域に区分され、AIが作った届出や判断には、資格を持つ人間の最終承認が法律で義務づけられました。資格が2045年も残っているのは、この一点によります。ただし、承認そのものは1件あたり数秒で終わります。
結果として、顧問料の中身が入れ替わりました。2026年に手続きの代行へ払われていたお金が、2045年には相談と調整に払われています。
ある一日
「ちょうど先月、こんな方の話を聞きました」ミチルさんは端末の画面を横に寄せた。
宮原直人(43歳)は、社会保険労務士の事務所を開いて12年になる。職員は自分を入れて3人。顧問先は50社ほど。
朝いちばんの仕事は承認だ。夜のうちにエージェントAIが作った届出が画面に並ぶ。入社が4件、退職が2件、労災の報告が1件。宮原は1件ずつ中身を開いて承認していく。
労災の1件で手が止まった。宮原はその会社の勤怠データをさかのぼり、事故の前の2週間を画面に出している。AIの下書きは様式としては正しい。ただ、事故の前に残業が続いていたことを書く欄は、この様式にない。
宮原は承認を保留にして、その会社に電話をかけた。用件は届出の話ではなく、その2週間に何があったのかという話だった。
10時、車で郊外の工場へ向かう。就業規則(しゅうぎょうきそく)を見直す打ち合わせだ。社長と、総務の担当者と、机を挟んで座る。
AIは条文の案を3つ出していた。どれも法律には合っている。宮原が話したのは、案の中身ではなく、この会社で実際に何が起きるかだった。
「二番の案だと、来月から夜勤の人の手取りが減ります。金額としては月に数千円ですが、説明なしで変えると、たぶん3人辞めます」
「……そこまでは、機械は言わないな」
「言えないと思います。3人の顔を知らないので」
昼過ぎ、別の顧問先へ。パートで働く人が勤務時間を短くしたいと申し出て、店長が断ったという話だった。宮原は2人を同じ部屋に呼ばず、別々に事情を聞いた。片方が20分、もう片方が30分。
聞き終えてから、宮原は2人に共通して伝わる言い方を紙に書いて、店長に見せた。法律の条文は一行も出てこない紙だった。
夜、メッセージが1件届いた。「手続きはお願いしていないのですが、相談だけしてもいいですか」。宮原はその一行を読んでから、翌週の枠を返信した。2045年のこの事務所の売上は、半分以上がこういう一行から始まっている。
消えた業務・残った業務
| 分類 | 業務 |
|---|---|
| AIに代替 | 入社と退職の届出の作成/役所への電子申請/給与計算と社会保険料の計算/法改正の把握と社内向け通知文の下書き/助成金の要件の照合/年金の見込み額の試算 |
| AIと協働 | 就業規則の原案づくり/労働時間データの分析と是正案の作成/賃金制度の設計案の比較/職場の安全衛生の点検リスト運用 |
| 人間に残る | 会社と働く人のあいだに立つ調整/経営者への助言/行政の調査での折衝/相談の聞き取り/届出と判断の最終承認 |
表にすると、消えたのは「様式が決まっている仕事」だと分かります。届出、申請、計算、照合。2026年の事務所が人手をかけていた作業の多くが、この列に入りました。
残ったのは、様式のない仕事です。そのほとんどが、立場の違う人のあいだで起きています。
それでも人間がやる価値
2045年の社会保険労務士の核心は、一つに絞れます。
会社と働く人の、両方から話を聞ける場所に座ることです。
この位置は、意外なほど代わりがききません。社長にだけ雇われた助言役なら、働く人は本音を話しません。働く人の側にだけ立つ代理人なら、社長は相談を持ちかけません。両方から話を聞ける人がいて初めて、就業規則の一行が動きます。
AIは、条文に合う案をいくらでも出せます。出せないのは、両方から恨まれる可能性を引き受けたうえで、同じ部屋に座り続けることのほうです。責任を引き受ける人がいるという事実そのものが、この職業の売り物になりました。
「うちの会社、退職の手続きって年に二、3件なんです」沢口が言った。「でも、辞める本人にとっては1回きりですよね」
ミチルさんは書類の角をそろえていた。
「わたしも昔、相手にとっては一生に一度のことを、こちらは何十回も繰り返している、という仕事をしていました。慣れてしまうのがいちばん怖いと、最初に教わって」
「それは、何のお仕事だったんですか」
「長くなるので、また今度」ミチルさんは端末を沢口のほうへ向け直した。「それより、年収の話をしておきましょう」
2045年の年収
この職業の年収は、2045年には大きく2つに分かれています。分岐点は資格の有無ではなく、会社と働く人のあいだに立つ場面を自分の名前で引き受けられるかどうかです。
2045年の年収(現在の貨幣価値換算・編集部予測)
- 就業規則の設計と労使(ろうし・会社と働く人)の調整まで引き受け、経営の相談相手になった層:1500万円〜
- 承認と計算結果の確認が中心で、件数をこなす働き方に置かれた層:450万円前後
- 参考・2026年の平均:1134.6万円(賃金構造基本統計調査)
上に開くのは、調整の仕事が件数で測れないからです。1社のもめごとを止めた価値は、届出を100件出した価値と比べられません。顧問先を減らしてでも1社に深く入る事務所が強くなりました。
下に沈むのは、承認と確認だけなら1人が抱えられる件数が増えてしまうからです。単価の下がった作業を件数で埋める働き方に置かれると、この層の待遇は2026年の平均を大きく下回ります。
この仕事を目指すきみへ
この資格を考えているなら、条文の暗記とは別に、積んでおくとよい経験が3つあります。
- もめごとの場に居続けた経験。部活でもアルバイトでも構いません。両方の言い分を聞いて席を立たなかった時間が、そのまま持ち味になります
- 数字を人の生活に言い換える練習。手取りが月に数千円変わると暮らしのどこが変わるのかを、想像して言葉にする力です
- 手続きを一度は自分の手でやること。何が渡せる作業なのかを知っている人だけが、渡したあとに何をするかを決められます
進路は一つではありません。総務や人事の実務から入る道は、2045年もそのまま使えます。登録に必要な実務経験を先に持てるうえ、もめごとの現場を会社の内側から見られるからです。
「システムに置き換えられるのが怖いなら」ミチルさんは沢口に言った。「置き換えられたあとに残る席を、先に見ておくといいですよ。沢口さんはもう、その席のとなりで働いています」
沢口は封筒を裏返して、宛名の欄をしばらく見ていた。
「……問い合わせの対応、いちばん面倒だと思ってました」
「それが、残ったほうの仕事です」
【コラム】勤める社労士と、開業する社労士
job tagに並ぶ数字は、2つの別々の市場を1枚の紙に載せています。一方は、雇われて働く市場です。有効求人倍率は0.89、求人賃金は月28万円。求人より仕事を探す人のほうが多い状態です。
もう一方は、開業して顧客を取る市場です。job tagは、この職業の多くが独立して開業すること、独立後の収入は個人差が大きく、経験と顧客の数で増えることを挙げています。平均年収の1134.6万円は、この2つが混ざった数字として見るべきものです。
2045年、この2つの差はさらに開きました。雇われる側の仕事が承認と確認に寄り、開業する側が調整と助言に寄ったからです。資格は同じでも、売っているものが違う職業になりました。
まとめ
AI代替率(編集部予測):70%。入社と退職の届出、電子申請、給与計算、法改正の把握は、2045年にはエージェントAIの側へ移りました。残ったのは、様式のない仕事です。就業規則の一行が現場で何を起こすかを読むこと、もめている2人から別々に話を聞くこと、そして自分の名前で承認すること。2045年の社会保険労務士は、書類を出す人であることをやめて、会社と働く人のあいだに座る人になりました。
厚生労働省 職業情報提供サイト(job tag)「社会保険労務士」
※本記事は公開情報・統計データにもとづく2026年時点の未来予測フィクションです。登場する人物・施設は架空のものです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


