雪がちらついていた。閉店間際、しおり堂の戸を押し開けたのは、コートの肩を白くした初老の男だった。町の電器店を営む沢田浩一は、娘の結婚式で読むスピーチの下書きを、鞄に入れたまま歩き回っていた。
「すみません、こんな時間に」
栞さんは顔を上げ、「大丈夫ですよ」と静かに答えた。コーヒーの湯気が、店の灯りにゆっくりとのぼっていた。沢田は棚を眺めるふりをしながら、なかなか本題に入らなかった。栞さんはそれ以上聞かず、コーヒーをもう一杯淹れた。
しばらくして、沢田は鞄から紙の束を取り出した。何度も書き直した跡がある。
「来月、娘の結婚式でスピーチをするんです。最初は短く、いい文章が書けたと思ったんですが」
沢田は紙をめくった。一枚、また一枚と増えている。
「思い出のエピソードを、あとひとつ、もうひとつと足していったら、気づけばこんな量に。読み返すたびに、まだ何か足りない気がして。今日も新しい話を思いついて、ここに来る前も店の前で書き足していました」
栞さんは紙束を受け取り、そっとめくった。それから棚の奥から一冊の古びた本を取り出し、机の上に置いた。
原典 ── 『戦国策』斉策二
楚の国で、祠を管理する者が使用人たちに酒を一杯だけ振る舞った。人数分には足りないため、地面に蛇の絵を描き、最初に描き終えた者がその酒を飲むことにした。ある者が誰よりも早く蛇を描き終え、酒を手に取った。ところが彼は「まだ足を描く余裕がある」と、左手で杯を持ったまま、右手で蛇に足を描き足し始めた。描き終わらないうちに、別の者が蛇を描き上げ、杯を奪い取って言った。「蛇に足などない。あなたが描いたのは、もはや蛇ではない」。そう言って酒を飲み干した。足を描き足した者は、結局、酒を失った。「蛇足、ですね」と栞さんは言った。「もう十分に出来上がっているのに、まだ何か足りない気がして、余計なものを付け加えてしまう。それでせっかくの出来を、自分で崩してしまうんです」
沢田は少し驚いた顔をした。「まさに、それです。でも、足さないままで本当にいいんでしょうか。物足りないと思われたら」
「その不安、よく分かります」と栞さんは言った。「でも考えてみてください。蛇の絵を最初に描き終えた人は、もう勝っていたんですよ。杯は、もう彼のものだった。負けたのは、下手だったからじゃない。十分だと分からずに、手を止められなかったからです」
沢田は紙束にもう一度目を落とした。
「実は最初の一枚だけ、何も直さずに書けたんです。娘が小さい頃、自転車の練習に付き合った話でした。あれを書いたときは、迷いがなかった」
「それが、もう完成していた蛇なんだと思いますよ」と栞さんは言った。「そこに足を描き足そうとしたのが、そのあとの何十枚かなんじゃないでしょうか」
しおり堂の処方箋
足すのは、もうそこまでです。「もう十分に描き終えている絵に、足を描き足さないでください。それは絵をよくするためじゃなくて、自分の不安を静めるための作業になっていることが、案外多いんです」と栞さんは続けた。「スピーチも同じだと思います。エピソードを足すほど、聞いている人が娘さんを思い浮かべる時間は、逆に減っていくかもしれません」
沢田はしばらく黙って、紙束をめくり直していた。最初の一枚を、他の紙から抜き出した。
「これだけで、いいんでしょうか」
「もう一度読んでみて、迷いがなかったのはどれですか」と栞さんは聞いた。
「これです」と、沢田は最初の一枚を指した。声が少し落ち着いていた。
沢田は残りの紙を鞄にしまい、最初の一枚だけを丁寧に折りたたんで胸ポケットに入れた。会計を済ませ、店を出るとき、彼は振り返って小さく頭を下げた。
「余計な足を、描かずに済みそうです」
雪は、まだ静かに降っていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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