蝉の声が路地の奥まで届く、日差しの強い昼下がりだった。日傘を差した女性が、しおり堂の前で足を止めた。ガラス戸の向こうは薄暗く、外の熱気とは違う涼しさが漂っている。少し迷ってから、彼女は戸を開けた。
「いらっしゃいませ」と栞さんが声をかけた。手には氷の溶けかけたアイスコーヒーのグラスがあった。
女性は会釈をして、棚の間をゆっくり歩いた。手に取った本を戻し、また別の本を手に取る。そんなことを何度か繰り返してから、ぽつりと言った。「涼みに寄っただけなんです、すみません」
「どうぞごゆっくり」栞さんはそう言って、また手元の本に目を戻した。
しばらく沈黙が続いた。女性は棚の隅で足を止め、独り言のように呟いた。「あと少しなのに、動けないんです」
栞さんが顔を上げた。「あと少し、というのは?」
女性はためらいながら話し始めた。会社員を続けながら、何年もハンドメイドのアクセサリーを作ってきたこと。SNSで少しずつ注文が増え、去年ついに小さな店を持つことを決めたこと。物件はもう契約した。内装も棚も仕入れも終わっている。あとは開店日を決めて、SNSで告知するだけ。それなのに、投稿ボタンを押す指がどうしても動かない。
「怖いんだと思います」と彼女は言った。「今なら、まだ『趣味でやっている人』のままでいられます。でも告知した瞬間、後戻りできなくなる気がして」
栞さんはしばらく黙っていたが、やがて奥の棚から一冊の古い画集を持ってきた。
原典 ── 『歴代名画記』張僧繇
南北朝時代、梁の画家・張僧繇は、金陵(今の南京)にある安楽寺の壁に、四匹の白い竜を描いた。どれも今にも動き出しそうなほど見事な絵だったが、どの竜にも瞳が描かれていなかった。理由を尋ねられると、張僧繇はこう答えた。「瞳を描き入れれば、竜はたちまち飛び去ってしまう」。人々はでたらめだと思い、強く瞳を描くよう求めた。彼が二匹の竜にだけ瞳を点じたとたん、雷鳴が轟いて壁が破れ、その二匹は雲に乗って天へ昇っていった。瞳を描かれなかった二匹は、今もその寺の壁に残っているという。栞さんはページを開きながら言った。「画竜点睛という言葉、聞いたことありますよね」
女性は頷いた。「物事の最後の仕上げ、というような意味だったと思います」
「はい。よく『画竜点睛を欠く』という形で使いますよね。肝心なところが足りない、という意味で」栞さんは画集を閉じて、少し違う角度から続けた。「でも私はこの話、瞳を入れた竜と、入れなかった竜の違いのほうが気になるんです」
「違い、ですか」
「瞳を入れた二匹は、飛んでいってしまった。でも、入れなかった二匹は、今もずっとその寺の壁に残っているんですよね。何百年も、絵のままで」
女性は少し黙ってから言った。「それって、私の棚のことですよね。物件も内装も揃っているのに、絵のままだって」
「はい」栞さんは頷いた。「どれだけ立派に描けていても、瞳を入れるまでは、絵は絵のままなんです。動き出さない」
「でも、瞳を入れたら」
「飛んでいってしまいます。あなたの手からは、離れていきます」
女性はグラスの結露を見つめながら、小さく息を吐いた。「だから怖いんだと思います。投稿してしまえば、もう『趣味でやっている人』ではいられない。お客さんが来て、感想を言われて、うまくいかないこともあるかもしれない。それが、目の前にちゃんと見えてしまう」
「でも」と栞さんは静かに言った。
しおり堂の処方箋
その一筆は、完成させるためではなく、あなたの手から放すためのものです。女性は少し目を伏せてから、小さく笑った。「手放す、か」
「張僧繇は、四匹とも同じように丁寧に描いたはずです」栞さんは言った。「でも瞳を入れたのは、そのうちの二匹だけでした。全部を一度に飛ばす必要はないんです。今回はこれだけ、と決めて、そこにだけ瞳を入れる。それでいいんだと思います」
「開店の告知だけ、ということですか」
「はい。内装や仕入れは、もう十分な瞳のない竜です。あとは、あなたがどの竜に、いつ瞳を入れるかだけです」
女性はしばらく黙って、自分の手元を見ていた。それから、小さく息を吐いた。「今夜、投稿してみます。それが正しいことなのかは、まだ分かりませんが」
「正しいかどうかより、飛んでいくかどうかだと思いますよ」栞さんは微笑んだ。
女性は本を棚に戻し、日傘を手に取った。戸を開ける前に振り返って、「ありがとうございました」と一礼した。外の熱気の中に戻っていく背中は、来た時より少しだけ軽く見えた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


