雨は降っていなかった。晴れてもいなかった。灰色の空の下、店をたたんだ翌朝、その男はふらりと歩いていて、気づけばしおり堂の扉の前に立っていた。
「いらっしゃいませ」栞さんは顔を上げずに言った。
男は返事をしなかった。棚のあいだを、あてもなく歩いた。手に取った本を、開かずに戻す。それを何度か繰り返してから、ようやく口を開いた。
「店、たたんだんです。昨日」
栞さんはコーヒーを一口飲んで、静かに聞き返した。「そうですか」
「三年やって、結局こうなりました。周りには、もう次はいいかなって言いました」
原典 ── 『題烏江亭』杜牧
勝敗は兵家も予期せぬもの。恥を忍んでこそ、男児と言えます。江東の若者には、まだ才ある者が多い。土をまた巻き返す日が来るかどうかは、まだ誰にも分かりません。栞さんは奥の棚から、薄い漢詩集を取り出した。開いたページには、その一節が書かれていた。
「唐の詩人、杜牧が詠んだ詩です」栞さんは言った。「項羽という武将が、垓下の戦いに敗れて、江を渡れば再起できたのに、それをせずに命を絶ったという故事を踏まえています。杜牧は、その選択を惜しんだんですよね」
男は詩を目で追いながら、少し黙っていた。
「一度の敗北で、すべてが終わったと決めつけるのは早い、ということですか」
「そうとも読めますし」栞さんは続けた。「もう一つ、大事なのは、この詩が『必ず勝てる』とは言っていないところです。捲土重来は保証じゃありません。『未だ知るべからず』、まだ分からない、というだけです」
しおり堂の処方箋
負けたことと、負けたままでいることは、別の話です。今日負けたなら、今日はそこまで。でも、それが来年も負け続ける理由にはなりません。土を巻き返せるかどうかは、まだ誰にも分からないんですよ。「負けたことと、負けたままでいることは、別の話です」栞さんは言った。「今日負けたなら、今日はそこまで。でも、それが来年も負け続ける理由にはなりません。土を巻き返せるかどうかは、まだ誰にも分からないんですよ。あなたにも」
男は詩集を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、小さく息を吐いた。
「もう一度、って考えていいんでしょうか」
「考えるだけなら、いつでも自由です」栞さんはそう言って、また本を閉じた。
男は本を買わなかった。ただ、店を出るとき、来たときより少しだけ、背筋が伸びていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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