守株「その切り株は、もう兎を呼びません」

守株「その切り株は、もう兎を呼びません」アイキャッチ画像 読み物(しおり堂の処方箋)

雨上がりの夕方、一人の女が店に入ってきた。傘立てに置いた折り畳み傘から、まだ水が滴っていた。

「濡れましたね」と栞さんは声をかけた。

女は少し驚いた顔をしてから、「あ、はい」と小さく答えた。「駅からここまでで、また降られてしまって」

「何かお探しですか」

「仕事に効く本、みたいなものがあれば」と女は言った。それきり、平積みの本の背表紙を眺めるふりをしながら、視線はどこにも留まっていなかった。

栞さんは棚の整理を続けながら、急かさずに待った。店内には、コーヒーの匂いと、古い紙の匂いだけがあった。

しばらくして、女はぽつりと言った。「仕事、うまくいっていないんです」と。「販売の仕事をしているんですけど。私、去年まで売上トップだったんです。同じトークで、同じ売り方で。それが急に、通用しなくなって」

栞さんは少し考えてから、コーヒーを一口飲んで、女の方に向き直った。

「お店、変わったんですか」

「異動になったんです。前の店の常連さんは、みんな私のとっておきの決まり文句で笑ってくれたのに。新しい店では、同じことを言っても、誰も反応してくれなくて」

女は続けた。「それでも、あのやり方でずっと数字を出してきたから。今も同じトークを、同じタイミングで言い続けているんです。またいつか、あの頃みたいに刺さる日が来るんじゃないかって」

栞さんは棚の奥から古い一冊を取り出して、女に差し出した。

「宋の国に、畑を耕していた男がいたそうですよ」

原典 ── 『韓非子』五蠹篇

宋の国に、田を耕す男がいた。田の中に切り株があった。ある日、一匹の兎が走ってきて、その切り株にぶつかり、首の骨を折って死んだ。男は労せずして兎を手に入れた。そこで男は鍬を投げ出し、切り株を見張り続けた。またあの日のように、兎が手に入るのを願って。しかし兎が再び手に入ることはなく、男は国じゅうの笑いものになった。

「この人、それから畑仕事をやめてしまったんですって」と栞さんは言った。「一度だけ起きたラッキーを、毎日起きることだと思い込んでしまったんですよね」

「……それ、今の私みたいですね」

「そのとっておきが刺さったのって、たぶんトークそのものの力じゃなくて、あの店の、あのお客さんたちとの間にあった空気だったんじゃないでしょうか。場所が変われば、切り株の位置も変わりますよね」

女は黙って、原典の続きに目を落とした。

「畑を耕していた頃の男は、うまくいくかどうか分からないなりに、毎日鍬を振っていたはずなんです。切り株の前に座り込むようになってから、彼は何もしなくなった。守っているようで、実は一番怖いことを避けていただけなのかもしれません」

しおり堂の処方箋

うまくいったやり方を、大切にすること自体は間違っていません。問題は、それがうまくいった「理由」を分解せずに、「型」だけを抱えて動かなくなってしまうことです。あの日あなたを刺したのは、決まり文句そのものではなく、その場にいた人たちとの間に流れていた空気だったのかもしれません。場所が変われば、もう一度、鍬を手に取ってみてもいい頃合いです。切り株の前に座っていた時間の分だけ、次の一歩は少し勇気がいるかもしれませんが。

女は本を静かに閉じて、少しだけ笑った。「畑、耕してみます」

店を出るとき、傘はまだ湿っていたけれど、女の足取りは来たときより軽かった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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