三崎奈津(32歳)は、何も届いていないスマートフォンをまた見た。
画面には時刻しか出ていない。伏せてから、すぐにもう一度起こす。カウンターの向こうで、本の値札を書いていた栞さんが手を止めた。
「急ぎの連絡ですか」
「いえ。何も来てないんです」
三崎はスマートフォンを鞄にしまった。
「来てないから、見てるんです」
店の外には、梅雨の晴れ間の光がまだ残っていた。入口に近い棚の背だけが明るく、奥の棚はもう夕方の色になっている。
「姉に言われて来ました。前に本を選んでもらったことがあるらしくて。『あんたは一度、本屋にでも相談してきなさい』って」
「本屋に相談ですか」
「変ですよね」
「本ならあります」
三崎は1段ぶんの背を端まで追い、何も抜かずに、また同じところへ戻った。
「夜中に目が覚めるんです」
栞さんは値札の束を脇へよけた。
「母から着信がないか見ます。ないです。会社のメールも見ます。何も来てない。そうすると今度は、何か来るとしたら何だろうって考え始めるんです。病院かな、とか。仕事で何か見落としたかな、とか」
三崎は鞄の口を押さえた。中でスマートフォンが鳴ったわけではなかった。
「朝になると、だいたい何も起きてません。だから余計に、自分が馬鹿みたいで」
「何も起きていない夜ほど、忙しいんですね」
三崎はしばらく黙った。
「そうです。たぶん、それです」
栞さんは腰の高さの棚から、背の低い本を1冊抜いた。布張りの背は日焼けして、金色の題字がところどころ薄くなっている。
「杞憂(きゆう)。この話です」
原典 ── 『列子』天瑞篇
杞の国に、天地が崩れ落ち、身を寄せる場所がなくなることを心配して、寝ることも食べることもできなくなった人がいた。すると、その人の心配を心配した別の人が訪ねていき、天は気の積み重なりなのだと説いた。では日や月や星は落ちてこないのかと問われると、それらも光を放つ気であり、たとえ落ちたとしても人を傷つけることはないと答えた。地はどうなのかと問われると、地は塊の積み重なりで、どこにも隙間なく詰まっているのだと説いた。話を聞いた人は、すっかり安心して大いに喜んだ。説いた人もまた、すっかり安心して大いに喜んだ。
「説いた人も?」
「原文は、2人に同じ言葉を使っています」
栞さんは、同じ言葉が出てくる2か所に指を置いた。
「心配していた本人だけが楽になった話ではないんです」
「でも、説明してもらえば安心できた、っていう話ですよね」
「ここで終われば、そう読めます」
「終わらないんですか」
栞さんは頁を先へ送った。
原典の続き ── 『列子』天瑞篇
長廬子はこの話を聞いて笑い、天地が壊れることを心配するのは遠すぎる心配だが、壊れないと言い切るのも正しくない、と述べる。天地はいずれ壊れるのだから、その時に出会えば心配しないわけにはいかない、と。さらに列子は、天地が壊れると言う者も、壊れないと言う者も誤っており、壊れるかどうかは自分には分からない、と言う。
三崎は、開いたままの本を見た。
「それ、安心させる話としては、途中からだいぶ不親切ですね」
「保証はしてくれませんね」
「天が落ちないことさえ?」
「列子には分からないそうです」
三崎は鞄に手を入れかけ、やめた。
「じゃあ、何で安心したんでしょう」
「最初の2人ですか」
「はい」
「本人は説明を聞いたあとです。でも、説明した人まで喜んだ理由は書いてありません」
栞さんは本を閉じなかった。
三崎は鞄からスマートフォンを出した。画面は点けなかった。
「姉、毎朝『眠れた?』って送ってくるんです」
「そうでしたか」
「私、あれが嫌だったんですよ。朝から確認されてるみたいで」
三崎はスマートフォンを掌で裏返した。
「でも、姉も勝手に心配してるのかもしれませんね」
「それは、お姉さんに聞かないと分かりません」
「ですよね」
しおり堂の処方箋
天地が壊れるかどうかは、列子にも分かりませんでした。ただ、安心して喜んだのは、心配していた本人だけではありませんでした。
三崎はその本を買った。
「今夜、眠れるかは分かりませんけど」
「ええ」
「分からないまま、持って帰ります」
三崎はスマートフォンをしまい、本をその上に入れた。
扉の向こうで、三崎は一度立ち止まった。スマートフォンを取り出し、耳に当てる。呼び出し音が鳴り始める前に、扉が閉じた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
リファレンス
- 維基文庫『列子』天瑞篇:杞憂の本文と長廬子・列子の続き
- 台湾・教育部《成語典》「杞人憂天」:典源と「舍然」などの語釈
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