塞翁が失馬「もう失敗だったことにしました」

塞翁が失馬 もう失敗だったことにしました しおり堂の処方箋

杉原直樹(39歳)は、名刺入れから2枚の名刺を出して、カウンターに置いた。

手前にあるのは、3か月前に転職した会社のもの。その後ろに、前の会社の名刺が1枚だけ残っていた。

「古いほう、まだ持ってるんですね」

栞さんは、カウンターに置かれた2枚を見た。

「捨てるほど嫌いで辞めたわけじゃないので」

杉原は2枚とも名刺入れに戻した。

開店から間もない時間だった。外では風が強く、扉が開くたび、入口の文庫本の帯が1枚だけ持ち上がった。

「前の会社の同期に、ここを教えられました。悩んでるなら、変わった古本屋があるって」

「変わった、ですか」

「褒めてましたよ。たぶん」

名刺入れは、カウンターに置いたままだった。

「転職、失敗した気がするんです」

「いつ転職を?」

「3か月前です」

新しい会社では、やりたかった企画の仕事より、会議の調整や資料づくりに時間を使っている。先週、前の会社の同期が昇進した。同期のグループチャットには祝いの言葉が並び、杉原も「おめでとう」と送った。

そのあと、転職サイトを開いた。

「前の会社に残ってたら、僕も昇進してたかもしれない。少なくとも、今みたいに新人扱いではなかった」

栞さんは、カウンターに残った名刺入れを見た。

「もう戻りたいんですか」

「それは分からないです。でも、もう失敗だったことにしました」

「ことにした」

「そうしないと、毎日比べるんです。今日は前の会社より良かった、今日は悪かったって」

栞さんはカウンターを離れ、棚の下段から函入りの本を抜いた。函の角が擦れ、布張りの背の金文字はところどころ薄くなっている。見返しには、小さな朱色の蔵書印があった。

「塞翁が失馬(さいおうがしつば)。『淮南子』に出てくる話です」

原典 ── 『淮南子』人間訓

辺境の近くに、馬を飼うのが上手な人がいた。ある日、飼っていた馬が理由もなく逃げて胡の地へ入った。人々が慰めると、その家の父親は「これが福にならないと、どうして言えるだろう」と言った。

数か月後、その馬は胡の駿馬を連れて戻った。人々が祝うと、父は「これが禍にならないと、どうして言えるだろう」と言った。

「最初の馬、戻るんですね」

「戻ります」

「だったら、最初に馬が逃げたのも、結果的には良かったってことですか」

栞さんは本を閉じずに、次の行へ指を移した。

原典 ── 『淮南子』人間訓

家には良い馬が多くなり、その子は乗馬を好んだが、落馬して腿の骨を折った。人々が慰めると、父は「これが福にならないと、どうして言えるだろう」と言った。

1年後、胡人が辺境へ大挙して入り、壮年の者たちは弓を引いて戦った。辺境では10人に9人が死んだが、この家だけは、息子が足を不自由にしていたため、父子ともに身を保った。

だから、福が禍となり、禍が福となる変化にはきわまりがなく、その深さは測れない。

杉原は最初の頁へ戻った。

「馬が戻ったところで終わってたら、いい話でしたね」

「そうですね」

「息子がけがしたところで終わったら、悪い話だ」

栞さんは返事をせず、函を横に置いた。

杉原は自分の名刺入れを開いた。前の会社の名刺を抜き、新しい名刺と並べた。

「僕、馬が逃げたところで終わらせてますね」

「3か月は、3か月です」

「短いってことですか」

「長いかもしれません」

杉原は顔を上げた。

「どっちですか」

「3か月です」

杉原はしばらく2枚の名刺を見た。

「こういう人、相談相手としては不親切ですね」

「わたしは本屋です」

杉原は見返しの蔵書印を見て、指を止めた。

しおり堂の処方箋

馬が逃げた日にも、戻った日にも、話は続いていました。

杉原は本を閉じた。

「今日は、買わずに帰ります」

「ええ」

栞さんは本を受け取り、函に戻した。

杉原は名刺入れを開いた。古い名刺を捨てることはせず、新しい名刺の後ろに差した。2枚の角を揃えてから、今度は鞄の内ポケットにしまった。

扉を開けると、入口の帯がまた1枚だけ持ち上がった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

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※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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