雨が降っていた。傘を持たずに歩いていた女は、軒先を借りるつもりで「しおり堂」の扉を押した。
「濡れましたね」と栞さんは言った。カウンターの向こうでコーヒーを飲んでいた手を止め、タオルを一枚差し出した。
「すみません、雨宿りだけです」
「どうぞ、ゆっくりしていってください」
女はタオルを受け取ったまま、しばらく棚の間を歩いた。手に取った本を戻し、また別の本を取り、結局どれも開かなかった。栞さんが二杯目のコーヒーを注ぎ終えたころ、女はぽつりと言った。
「半年前に、転職したんです。今の会社、正直ここまでとは思っていなくて。前の会社にいれば、って毎日考えます」
栞さんは少し黙って、女の横顔を見た。それから、奥の書棚から一冊の古い本を抜き出した。表紙は擦れていたが、手に取ると存外軽い本だった。
塞翁が失馬 ── 幸不幸は、その場では決まらない
「塞翁が失馬(さいおうがしつば)」は、国境の塞(さい)のあたりに住んでいた老人の馬にまつわる話から生まれた言葉です。
昔、国境近くに住むある老人の馬が、何の理由もなく胡(こ、北方の異民族の地)へ逃げてしまいました。近所の人たちは気の毒がって老人を慰めましたが、老人はこう言いました。「これがどうして福にならないと言えるだろうか」
数ヶ月後、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきました。今度は人々が祝いに来ましたが、老人はまた言いました。「これがどうして禍にならないと言えるだろうか」
やがて家には良馬が増え、老人の息子はその馬に乗るのを好むようになりました。ある日、息子は馬から落ち、足の骨を折ってしまいます。人々は再び老人を気の毒がりましたが、老人は同じように言いました。「これがどうして福にならないと言えるだろうか」
一年後、胡の人々が国境を大きく越えて攻め込んできました。若く健康な男たちは戦に召集され、多くが命を落としましたが、足を折っていた息子は戦に出ることができず、父子ともに無事でいることができたのです。
原典 ── 『淮南子』人間訓
近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡、人皆弔之。其父曰「此何遽不為福乎」。居數月、其馬將胡駿馬而歸、人皆賀之。其父曰「此何遽不能為禍乎」。家富良馬、其子好騎、墮而折其髀、人皆弔之。其父曰「此何遽不為福乎」。居一年、胡人大入塞、丁壯者引弦而戰、近塞之民、死者十九、此獨以跛之故、父子相保。老人は、馬が逃げたことも、駿馬を連れて戻ったことも、息子が骨を折ったことも、どの時点でも一喜一憂しませんでした。その場で見えている出来事が、最終的に福なのか禍なのか、まだ誰にもわからないと知っていたからです。
しおり堂の処方箋
「今の会社を選んだことが、正解だったか間違いだったか」と女は言った。栞さんは本を閉じて、静かに答えた。
「正直に言うと、それは今の私たちにはわからないことなんですよね。老人が馬を見ていたときと同じで」
「でも、明らかに前より苦しいんです」
「苦しいのは本当のことだと思います。それは無理に否定しなくていいです。ただ、この話の老人がすごいのは、良いことにも悪いことにも、同じ大きさの反応をしなかったことなんです。喜びすぎず、絶望しすぎず。だから、次に起きることをちゃんと見ていられた」
女は少し黙って、タオルを膝の上で握った。
「今の苦しさが、この先の何につながるかは、今の私たちには見えません。それでも、これは結末じゃないんです。まだ話の途中なんですよね」
しおり堂の処方箋
今、目の前にある不幸は、まだ物語の結末ではありません。福と禍は同じ扉から交互に出入りするもの。今の一場面だけで、自分の選択に判決を下さなくていいのです。雨はいつのまにか小さくなっていた。女はタオルを丁寧に折って、カウンターに置いた。
「ありがとうございました。傘、買って帰ります」
「気をつけて。また、なんとなく寄ってください」
女が扉を出ていったあと、栞さんはカウンターに残った古い本を、もとの場所には戻さず、しばらく手元に置いておいた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


