夕方、閉店間際の時間帯に、20代らしき女性が「しおり堂」に駆け込むように入ってきた。
「すみません、まだ大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ、ゆっくりしてください」と栞さんは言った。
女性は息を整えながら、棚をひとつずつ確かめるように見ていった。手に取ったのは、古い技術書だった。表紙のデザインは明らかに何十年も前のものだ。
「こういう古い本、今は誰も読まないですよね」と女性はつぶやいた。「私の仕事も、正直そんな感じです。数年前に覚えたやり方は、もう通用しません。次から次に新しいものが出てきて、追いつくだけで精一杯で。今まで積み上げてきたものが、全部リセットされていく感覚があります」
栞さんは静かに、女性の手にある古い技術書を見た。
「その本、開いてみたことありますか」
女性は首を振った。栞さんは本を受け取り、埃を軽く払ってから、奥の書棚に向かった。
温故知新 ── 古いことを尋ねて、新しいことを知る
「温故知新(おんこちしん)」は、『論語』為政篇にある孔子の言葉から生まれました。
「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為るべし」。古いことをじっくりと確かめ直すことで、新しいことがわかるようになる。そうであれば、人の師となる資格がある、という意味です。
原典 ── 『論語』為政篇
子曰、温故而知新、可以爲師矣。この言葉の面白いところは、「古いものを大切にしなさい」という懐古の教えではないことです。孔子が語っているのは、古いものを「尋ね直す(温める)」という行為そのものが、新しいものを理解する力になる、という順序の話です。古いものは新しいものの敵ではなく、新しいものを読み解くための土台だと、この言葉は言っています。
しおり堂の処方箋
「私が数年前に覚えたことも、今の仕事の土台になっているということですか」と女性は言った。
栞さんは古い技術書を静かにカウンターに置いた。
「土台になっているかどうかは、正直、その人にしかわからないと思います。でも、この言葉が言っているのは、古いものと新しいものを、別々の competition(競争)だと考えなくていい、ということだと思うんです。新しいものは、大体いつも、古いものの上にしか立てませんから」
「全部リセットされている感覚があるんです」
「感覚としては、それも本当だと思います。ただ、リセットされたように見えるものの下に、何か一枚、土台のようなものが残っていないか。一度だけ、確かめてみてもいいかもしれません」
しおり堂の処方箋
古いものは、置いていかれた人の味方です。新しいものは、古いものの上にしか立てません。今まで積み上げてきたものを、一度だけ尋ね直してみてください。女性は古い技術書を、今度は自分の手で開いた。ぱらぱらとページをめくり、ふと手を止めた。
「意外と、今のやり方とつながる部分があるかもしれません」
「そう思えたなら、それはもう、新しいことを知り始めているということだと思います」
女性は本を胸に抱えるようにして、栞さんに礼を言った。外はもうすっかり暗くなっていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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