推敲「完成は、まだ来なくていいのです」

しおり堂の処方箋 第9回「推敲」アイキャッチ 読み物(しおり堂の処方箋)

雨が降り出したのは、駅から少し歩いたところだった。折りたたみ傘を持っていなかった彼女は、軒先を探して路地に入り、看板もろくに読まないまま、目についた店の扉を押した。

古書店だった。紙とインクの匂いがした。

「いらっしゃいませ」

奥のカウンターから、栞さんが顔を上げた。彼女は会釈だけ返し、濡れた肩を気にしながら、手近な棚をなんとなく眺めた。エッセイ、詩集、古い文庫。特に探しているものはなかった。

「濡れちゃいましたね」栞さんは言った。「よかったら、雨がやむまでゆっくりしていってください」

「はい……すみません、少し見させてもらいます」

「どうぞ。雨、しばらく続きそうですし」

栞さんはそう言って、カウンターの向こうでコーヒーを一口飲んだ。彼女は棚の背表紙をひとつずつ指でなぞりながら、ふと、鞄の中のノートパソコンのことを思い出した。今日提出するはずだった原稿が、まだ入っている。

「お仕事帰りですか」

「そうです……というか、本当は今日、原稿を出さないといけなかったんですけど」

栞さんは特に驚いた様子もなく、ただ静かに続きを待った。彼女は少し迷ってから、口を開いた。

「もう五回くらい書き直してるんです。クライアントには『もう少しお時間ください』って連絡したまま、結局今日も出せませんでした」

「五回」

「最初の原稿、実は悪くなかったと思うんです。でも読み返すたびに、ここはもっと良くできるんじゃないかって気になって。直しては読み返して、また直して。気づいたら、締切をとっくに過ぎていました」

栞さんは小さくうなずいて、カウンターの中から一冊の薄い本を取り出した。表紙は色褪せていて、タイトルは読み取りにくい。

「唐の時代に、賈島という詩人がいたんです」

【コラム】推敲という言葉の由来

賈島は、ロバに乗りながら詩を作っていた。ある夜の情景を詠んだ一句、「僧は月下の門を推す」。だが詠み終えたあとも気になって仕方がない。「推す」ではなく「敲く」の方が、静けさの中に音が立って良いのではないか。

賈島は手綱を忘れ、指で門を推す仕草と敲く仕草を交互に繰り返しながら考え込んだ。あまりの熱心さに、行列とぶつかりそうになったところを、通りかかった役人に呼び止められる。事情を話すと、その役人――当時すでに文人として名高かった韓愈は、しばらく考えてこう言った。「敲くの方がいい」。

以来、言葉を何度も練り直すことを「推敲」と呼ぶようになった。

「賈島は、一文字のために立ち止まった人なんです」と栞さんは言った。「でも、立ち止まり続けたわけじゃない。韓愈という人と出会って、『敲く』に決めて、先に進んだ」

原典 ── 賈島「題李凝幽居」/『唐才子伝』巻五

鳥宿池辺樹 僧敲月下門(鳥は池辺の樹に宿り、僧は月下の門を敲く)
──「推す」か「敲く」か。賈島が韓愈に出会い、迷いに区切りをつけた一句として知られる。

彼女は本を受け取って、しばらく黙っていた。

「私、たぶん『敲く』の方を選べていないんだと思います。ずっと『推す』のままです」

「直し続けること自体は、悪いことじゃないと思いますよ」栞さんは言った。「賈島も、最初から『敲く』が正解だってわかっていたわけじゃないですから。迷って、比べて、それでも最後は選んでいます」

「選ぶ、ですか」

「はい。推敲って、迷い続けるための作業じゃなくて、選ぶための作業なんですよね。今のあなたに足りていないのは、直す力じゃなくて、たぶん、選び終える力なんじゃないかと思います」

彼女は自分の原稿のことを思い浮かべた。五回書き直した中に、悪くない一文が、きっといくつもあったはずだった。それを選び取れずに、また書き直し続けていた。

しおり堂の処方箋

完成は、まだ来なくていい。ただ、今日選んだ言葉を、今日の答えにする勇気を持ってください。明日また直したくなったら、そのときにもう一度選び直せばいいのです。

雨はまだ止んでいなかったが、彼女は鞄からノートパソコンを取り出し、カウンターの隅を借りて画面を開いた。五回目の原稿を、もう一度だけ読み返す。そして、迷っていた一箇所を選び、それ以上は直さずに、送信ボタンを押した。

顔を上げると、栞さんはもうカウンターの向こうでコーヒーを飲んでいた。何も言わず、ただ小さく微笑んでいた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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