その日は朝から風が強かった。しおり堂の看板が軋む音を立て、通りの木々が一斉に葉を揺らしていた。
夕方、一人の女性が息を切らして店に飛び込んできた。強風に押されるように、半ば転がり込むような格好だった。コートの襟を直しながら、彼女は店の奥をぼんやり見回した。
「すみません、風が強くて……看板が見えたので、つい」
「お疲れさまです」と栞さんは言った。「今日はずいぶん荒れていますね」
「はい。もう、外も中も荒れてて」
彼女は苦笑いを浮かべ、近くの棚に手を伸ばした。文庫の背表紙をなぞる指が、少し落ち着かない。
「中も、ですか」と栞さんが軽く尋ねる。
「……仕事なんですけど」と彼女はためらいがちに言った。「今度、新しいプロジェクトで、ずっと反りが合わない人と組むことになったんです。前のプロジェクトで、ほとんど口も利かなくなるくらい揉めた相手で」
栞さんは黙って続きを待った。
「向こうも私のこと苦手だと思います。多分、お互い様なんですけど。それでも上が『二人でやってくれ』って決めてしまって。正直、気が重いです。分かり合えないまま一緒にやるくらいなら、いっそ誰か間に入ってほしいくらいで」
彼女は棚の前で肩を落とした。「仲直りする自信もないのに、うまくやれって言われても」
栞さんは少し考えてから、奥の棚に手を伸ばし、古い一冊を取り出した。
原典 ── 『孫子』九地篇
夫れ呉人と越人と相悪むも、其の舟を同じくして済りて風に遇うに当たりては、其の相救うこと左右の手の如し。「呉越同舟、という言葉です」と栞さんは本を差し出しながら言った。「呉の国の人と越の国の人は、長く敵同士だったそうです。でも同じ舟に乗って、嵐に遭ったら――両方とも溺れたくないから、左右の手みたいに助け合うんですって」
彼女は本を受け取りながら、少し眉をひそめた。「でもそれって、命がかかってるから助け合うだけですよね。私たちの場合、そこまで切迫してないですし……嫌いなままだと思います、たぶんこの先も」
「そうだと思いますよ」と栞さんは頷いた。「嫌いなままでいい話なんです、これは」
「え」
「呉越同舟の話に、仲直りの場面は出てこないんです。舟が岸に着いたら、また敵同士に戻ったかもしれません。それでも、嵐の間だけは同じ方向を向けた。それで舟は沈まなかった」
彼女は本を持ったまま、しばらく黙っていた。
「無理に好きになろうとしなくていい、ってことですか」
「はい。好きになる必要はないんです。ただ、同じ舟に乗っている間は、沈まない方向にだけ、力を合わせられればいい」
しおり堂の処方箋
仲良くなる必要は、ありません。ただ、同じ舟が沈まないように、手だけ貸してください。「手だけ、ですか」
「気持ちまで変える必要はないんです。プロジェクトが終わるまで、必要なところだけ手を貸し合う。それだけで、舟は着きます」
彼女は少し肩の力が抜けたように、小さく息を吐いた。「仲直りしなきゃ、って思ってたので……そう考えると、少し楽です」
「嫌いなままで進んでいい、というのは、案外楽な考え方だと思いますよ」
彼女は本を棚に戻すのを手伝いながら、少しだけ表情を緩めていた。店を出るとき、風はまだ強かったが、彼女は先ほどより落ち着いた足取りで、通りへ出ていった。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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