木枯らしが吹き始めた、平日の午後だった。
店のドアが開き、コートの襟を立てた男が入ってきた。手にはノートパソコンの入ったバッグを、まるで大事な荷物のように両手で抱えている。名を、高瀬悠真という。三十二歳。フリーランスでウェブデザインの仕事をしている。
「あの、ここ、本屋さんですよね」
「ええ、まあ」栞さんは湯気の立つカップを置いて答えた。「探し物ですか」
高瀬は棚をぐるりと見回してから、「いや、たまたま通りかかって」と言った。それきり、文庫の並びを指でなぞりながら黙っていた。
栞さんはコーヒーを一口飲んで、待った。急かす気配は見せなかった。
「実は」高瀬がようやく口を開いた。「最近、仕事の確認作業に時間をかけすぎてしまって。前に一度、クライアントに未完成のデータをそのまま送ってしまったことがあって。それ以来、何度も見直さないと不安で、新しい案件になかなか手をつけられないんです」
栞さんは静かにうなずいた。「一度、火傷をしたんですね」
「そうかもしれません」
栞さんは棚の奥から、古びた一冊を取り出した。
原典 ── 『楚辞』九章 惜誦
「懲於羹而吹韲兮、何不變此志也」(羹に懲りて韲を吹く、何ぞこの志を變えざるや)戦国時代の楚の政治家・屈原が記したとされる詩の一節。国を思う進言を続けて追放された屈原の心情を綴った詩の中に、この一句が置かれている。熱い吸い物で口を火傷した経験から、冷たい膾にまで息を吹きかけて冷まそうとしてしまう──一度の失敗に懲りて、必要以上に用心深くなることのたとえとして、後世に伝わった。
「これ、知っていますか」
「羹に懲りて膾を吹く、ですよね。名前だけは」
「そう。熱い汁物で舌を火傷したら、次からは冷たい酢の物にまで息を吹きかけてしまう、という話です」栞さんはページをめくりながら言った。「火傷した瞬間の判断としては、間違っていないんですよ。熱いものには気をつけたほうがいい。問題は、それを冷たい皿にまで広げてしまうことです」
高瀬は少し黙ってから、「僕がやっているのは、それですか」と聞いた。
「一度のミスは、確かに痛かったと思います」栞さんは言葉を選ぶように続けた。「でも今、あなたが何度も見直している案件は、前のミスと同じ熱さを持っていますか」
高瀬は答えなかった。
栞さんはさらに続けた。「羹に懲りることまでは、必要な学びです。でも、目の前の膾がもう冷めているかどうかを見ずに、とにかく吹いてしまう。それは用心じゃなくて、確認する手間そのものが目的になってしまっているのかもしれません」
しおり堂の処方箋
その皿は、もう冷めています。冷めた膾を、これ以上吹く必要はありません。高瀬はしばらく黙って、自分のバッグを見た。
「毎回、同じ熱さだと思い込んでいたのかもしれません」
「火傷した記憶は、簡単には消えません」栞さんは言った。「消さなくていいと思います。ただ、皿ごとに温度を測る癖をつけたほうが、少し楽になるかもしれません」
高瀬は小さく息を吐いた。何かが少し軽くなったような表情だった。
「今日出す予定のメール、もう一度だけ見直してから送ります」
「一度だけなら」栞さんは微笑んだ。
高瀬は本を棚に戻すのを手伝おうとしたが、栞さんは首を振って自分で受け取った。高瀬は軽く頭を下げて、ドアを開けた。冷たい風が一瞬、店の中に入り込んだ。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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