※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
横井浩介さん(52・食品卸の営業管理職)と妻の絵里さん(49・歯科医院受付のパート)は、高校2年の長男との3人暮らし。隣県の実家では、母の文子さん(79)が一人で暮らしてきました。父を七年前に見送ってから、文子さんは「あなたたちに迷惑はかけないから」が口癖でした。実際、年金と、こつこつ積んできた定期預金約6,000,000円がありました。いずれ見守りのある住まいに移るときは、それを使えばいい。家族の間では、そういう話になっていたのです。
「また、お鍋を焦がしちゃって」
異変は、今年の春から続いていました。電話口で同じ話が繰り返される。実家に行くと、焦げた鍋がベランダの隅に隠すように置いてある。かかりつけ医の紹介で受けた検査の結果は、アルツハイマー型認知症。要介護2の認定が下りました。
「お母さん、もうひとりは心配だね」
「うん。……住み替えの話、進めよう。幸い、お母さん自身の蓄えがあるから」
厚生労働省の研究班の推計では、認知症の高齢者は2022年時点で443.2万人。2030年には523.1万人に達すると見込まれています。横井家に起きたことは、どの家にも起こりうることでした。
窓口で止まった定期預金
入居一時金と引っ越し費用に充てるため、浩介さんは文子さんに付き添って銀行の窓口を訪ねました。定期預金の解約。書類はそろえたつもりでした。しかし、窓口でのやり取りの中で、文子さんは自分の生年月日と解約の目的をうまく答えられませんでした。
「ご本人様のご意思の確認が難しい場合、お手続きをお受けできかねるんです」
行員の言葉は丁寧で、そして動きませんでした。母のお金を、母のために使う。それだけのことが、できない。帰りの車で、浩介さんはハンドルを握ったまま、しばらく言葉が出ませんでした。
金融機関は、本人の資産を守るために、意思確認ができないお金の払い出しには慎重です。そして窓口で案内されたのが、家庭裁判所に申し立てる成年後見制度でした。最高裁判所のまとめによると、2025年(令和7年)の成年後見関係の申立ては43,159件で前年より約3.2%増加。申立ての動機は「預貯金等の管理・解約」が93.4%で最多、後見開始の原因は認知症が61.3%を占めます。横井家は、統計のいちばん太い道を歩き始めたところでした。
「後見人は、司法書士さんです」
診断書、財産目録、親族の同意書。仕事の合間に書類をそろえ、申立てから数か月。家庭裁判所が選任したのは、浩介さんではなく、面識のない司法書士でした。最高裁のまとめでは、親族が後見人に選ばれたのは全体の16.4%。83.6%は司法書士や弁護士などの第三者です。
「僕じゃ、だめだったんだな」
「離れて住んでるし、お仕事もあるし……。専門家に見てもらえるなら、安心じゃない」絵里さんはそう言ってから、書類の続きに目を落としました。後見人への報酬は、家庭裁判所が決める。東京家庭裁判所が公表しているめやすでは、基本報酬は月額20,000円です。そしてこの報酬は、法律の定めにより本人の財産から支払われます。
月額20,000円は、年間で240,000円。ようやく後見人の手で解約できた約6,000,000円の定期預金から、施設の費用と並んで、制度を使うための費用が引かれ続けていきます。東京家裁の案内にあるとおり、後見の手続きが終了するのは、本人が亡くなったとき。母に長生きしてほしいという願いは、そのまま、支払いが続くことを意味します。
「お母さんのお金、守られてはいるんだよね」
「守られてる。ただ、自由には使えない。……こういう仕組みだって、誰も教えてくれなかったな」
横井家の家計にも、変化が定着しました。申立ての頃の実費の立て替え、月に二度の実家との行き来の交通費、実家の光熱費や庭木の手入れ。月に33,000円前後が、固定費として居座るようになったのです。
リアル家計簿:横井家(夫52歳・妻49歳・子1人)
収入
・夫の給与(手取り):335,000円
・妻のパート収入(歯科医院受付・週4日):80,000円
収入合計:415,000円
固定費
・住宅ローン(固定金利・残10年):95,000円
・電気・ガス・水道:24,000円
・通信費(スマホ3台・Wi-Fi):14,000円
・生命保険・医療保険(夫婦):18,000円
・車1台(任意保険・駐車場・ガソリン):25,000円
・母の後見・実家関連(申立て実費の立て替え分・実家との行き来の交通費・実家の光熱費など):33,000円
固定費小計:209,000円
変動費
・食費(3人・弁当持参):88,000円
・日用品・雑費:14,000円
・長男の塾・模試費(高2):28,000円
・夫婦の小遣い・交際費:35,000円
・医療費・散髪など:6,000円
変動費小計:171,000円
特別費(年間支出の月割り)
・自動車税・車検・タイヤ交換(年間約110,000円の月割り):9,000円
・帰省・冠婚葬祭・家電の買い替え(年間約140,000円の月割り):12,000円
特別費小計:21,000円
貯蓄
・つみたて投資(老後資金・減額中):20,000円
支出合計(貯蓄含む):421,000円
収支:−6,000円(ボーナスで補填)
これまで月々の黒字とボーナスで積み上げてきた老後資金づくりは、母の件が始まってから減速しました。不足分と大きな立て替えは夏と冬のボーナスで埋めています。長男の大学進学は、再来年に迫っています。
【コラム】「本人のためのお金」の壁
成年後見制度の利用者は、2025年(令和7年)12月末時点で259,901人。2030年に523.1万人と推計される認知症高齢者の数と比べると、利用はごく一部にとどまります。制度を使えば財産は守られますが、費用と手間がかかる。使わなければ、お金が動かせなくなることがある。元気なうちに備える任意後見制度のような仕組みもあります。お金の置き場所と、いざというとき誰がどう動くか。家族で早めに話しておくことが、いちばん安い備えになります。
まとめ
文子さんの約6,000,000円は、消えたわけではありません。制度によって守られています。ただし、母のために使うたびに手続きが要り、使っている間ずっと費用がかかる形で。「こんなはずじゃなかった」は、値上げの通知だけでなく、制度の入り口にも待っています。親のお金の話は、話せるうちに。横井家がいま、いちばん伝えたいことです。
成年後見関係事件の概況(令和7年1月~12月)最高裁判所事務総局家庭局
成年後見人等の報酬額のめやす(東京家庭裁判所)
よくある質問(東京家庭裁判所後見センター)
認知症及び軽度認知障害の有病率調査並びに将来推計に関する研究(厚生労働省掲載資料)
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


