※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
賃金が上がったというニュースは、今年も何度も流れました。厚生労働省の毎月勤労統計調査によると、2026年(令和8年)3月分の現金給与総額は31万8563円で、前年同月比3.1%の増加です。物価の影響を除いた実質賃金も1.4%増えています。
それでも、柏木家の給与明細に書かれた昇給額は、月2000円でした。
「3.1%増」のニュースを 柏木家は台所で聞いた
柏木隆之(46歳)は、従業員30人の金属部品メーカーで製造の仕事をしています。妻の柏木沙織(44歳)は、調剤薬局で事務のパートをしています。中学3年の長男と、小学5年の長女がいます。
4月の給与明細を見たとき、隆之は数字を二度見ました。基本給の欄が、去年より2000円だけ増えていました。会社の説明は「今年もベースアップは見送り、定期昇給のみ」というものでした。
その夜、台所でニュースが流れていました。賃上げの春という言葉と、3.1%という数字が読み上げられます。
「うち、2000円だったよ」隆之は、麦茶を注ぎながら言いました。
「2000円」沙織は手を止めました。「……それ、月に?」
「月に2000円。年にすれば2万4000円だけど、手取りだともう少し減る」
沙織は何か言おうとして、やめました。責める相手がいない話だと分かっていたからです。
たった2000円。そう思おうとしたが、去年の同じ月に買っていた食材が、今はいくつかかごに入れられなくなっていることを、隆之は知っていました。
平均の3.1%は 誰の3.1%だったのか
毎月勤労統計調査の数字は、全国の事業所を集計した平均です。2026年3月分では、きまって支給する給与が29万2612円で3.3%増、所定内給与が27万2171円で3.4%増でした。就業形態別に見ると、一般労働者の現金給与総額は41万4612円で3.6%増、パートタイム労働者は11万3183円で2.0%増です。
平均は上がっています。ただし平均は、上がった人と上がらなかった人を足して割った数字です。大きく上げた企業がある一方で、据え置いた企業もあります。柏木家は後者に含まれていました。
一方、物価は待ってくれません。総務省統計局の消費者物価指数によると、2026年6月分の全国の総合指数は前年同月比1.7%の上昇、生鮮食品を除く総合は1.6%の上昇でした。
昇給が月2000円、手取りにすればおよそ1600円。そこに1.7%の物価上昇がかかると、月38万円台の家計では、上がった分はほぼ消えてしまいます。
「ニュースで賃上げって聞くたびに、うちだけ取り残されてる気がする」沙織はそう言いました。「文句を言う場所もないのが、いちばんきついね」
先に削ったのは 夏の帰省だった
柏木家が最初に削ったのは、教育費ではありませんでした。夏の帰省です。
例年は8月に、沙織の実家がある県へ家族4人で帰っていました。高速道路と土産と外食で、毎年およそ6万円がかかります。今年は、長男が中学3年で夏期講習があることを理由に、帰省を1泊に短縮しました。
理由を受験にしたのは、子どもたちに家計の話をしたくなかったからです。
「おばあちゃん、寂しがるかな」小学5年の長女が言いました。
「1泊でも顔は見せられるよ」沙織は答えました。答えながら、去年の夏に長女が川で遊んでいた時間の長さを思い出していました。
進学のための積立は、月1万5000円のまま残しました。長男は来年、高校生になります。ここを削れば、削った分は数年後に必ず戻ってくる、と隆之は考えていました。
こんなはずじゃなかった、と隆之は思います。20年働いて、役職はつかなくても、給料は少しずつ上がっていくものだと思っていました。実際、少しずつは上がっています。ただ、上がる速さが、物価に追いついていないだけです。
【コラム】実質賃金とは何か
実質賃金は、受け取った賃金を物価で割り戻した数字です。名目の賃金が3%増えても、物価が3%上がっていれば、買えるものの量は変わりません。この「買えるものの量」で見た賃金が実質賃金です。
毎月勤労統計調査では、消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)を使って実質化しています。2026年3月分の実質賃金は、前年同月比1.4%の増加でした。統計の上では、買えるものの量は増えている計算になります。
ただしこれも平均です。賃上げのなかった世帯にとっては、名目が横ばいのまま物価だけが上がるため、実質賃金は減ります。ニュースの数字と自分の実感がずれるのは、多くの場合この平均と個別の差から生まれます。
リアル家計簿:柏木家(夫46歳・妻44歳・子2人)
収入
- 隆之の手取り(金属部品メーカーの製造・昇給後):28万6000円
- 沙織のパート収入(調剤薬局の事務・週4日):7万8000円
- 児童手当(中学3年・小学5年の2人分):2万円
収入合計:38万4000円
固定費
- 住宅ローン(変動金利・築12年の建売):9万4000円
- 通信費(スマホ4台・自宅のWi-Fi):1万8000円
- 生命保険・医療保険(夫婦2人分):2万3000円
- 車1台(ローン・任意保険・自動車保険の付帯):2万6000円
- 電気・ガス・水道:2万7000円
固定費小計:18万8000円
変動費
- 食費(4人・米と長男の弁当代を含む):8万2000円
- 日用品・雑費:1万4000円
- ガソリン代(通勤と送迎):1万2000円
- 長男の塾・模試費(中学3年の受験期):3万8000円
- 長女の習い事(ピアノ):8000円
- 医療費・散髪など:9000円
- 交際費・夫婦の小遣い:2万4000円
変動費小計:18万7000円
特別費(年間支出の月割り)
- 自動車税・車検・タイヤ交換(年間およそ11万円の月割り):9000円
- 固定資産税(年間およそ12万円の月割り):1万円
- 帰省・家族旅行・冠婚葬祭(年間およそ12万円の月割り):1万円
- 家電の買い替え・住宅の修繕(年間およそ6万円の月割り):5000円
特別費小計:3万4000円
貯蓄(長男の進学用の積立):1万5000円
支出合計:42万4000円
収支:−4万円(ボーナスで補填)
柏木家は数年前から、月の不足分を夏と冬のボーナスで埋めてきました。年間で48万円ほどの穴を、ボーナスがふさいでいる形です。昇給が月2000円にとどまり、物価が上がり続けると、この穴が少しずつ広がっていきます。帰省を1泊に短縮したのは、その穴を今年のうちに1万円分だけ小さくするための判断でした。
賃金の統計は、来月も再来月も発表されます。柏木家の給与明細が次に変わるのは、1年後です。
厚生労働省 毎月勤労統計調査 2026年(令和8年)3月分結果確報
総務省統計局 消費者物価指数(CPI)全国 最新の月次結果の概要
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