時給が80円上がったのに手取りは月7,499円減った 社会保険に加入した40代パート世帯の誤算

時給が80円上がったのに手取りは月7,499円減った 社会保険に加入した40代パート世帯の家計 転落家族

※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。

2026年3月31日、秋田県の最低賃金が951円から1,031円に上がりました。引き上げ額は80円、率にして8.4%。全国で最も遅い発効日でした。この日を境に、全国すべての都道府県の最低賃金が1,023円以上となり、パートで働く人にとっての「ある基準」が事実上、機能しなくなりました。秋田県内に住む篠原家の家計で、その意味を追います。

「これで模試代が出せる」と思った春

篠原真由美(42歳)は、全国チェーンのドラッグストアで週21時間働いています。夫の孝之(46歳)は食品卸会社の営業で、手取りは月284,000円。長女の美咲は高校2年生、長男の大輔は中学2年生です。

真由美は月91時間のシフトを、7年間ほとんど変えずに守ってきました。理由ははっきりしています。夫の扶養の範囲で働くためです。

3月の終わり、休憩室に貼り紙が出ました。4月から時給が1,031円になる、という通知でした。

「80円だって。すごくない?」

その夜、真由美は夕食の片づけをしながら孝之に言いました。計算はすでに頭のなかで終わっていました。月91時間で7,280円の増加。年間にすれば87,000円ほどになります。

「美咲の模試代、これで出せるね」

美咲は秋から模試の回数が増えます。1回あたり6,000円前後、年に4回。今年に入ってから、その費用をどこから出すかが夫婦のあいだで宙に浮いたままでした。

孝之はうなずきながら、少しだけ間を置いて言いました。

「増えた分、なんか引かれたりしないのか」

「大丈夫だと思うけど。時間は増やしてないし」

真由美はそう答えました。扶養の範囲というのは年収の話だと理解していたからです。年収104万円だったものが113万円になる。130万円には届かない。だから何も変わらない。そう考えていました。

5月の給与明細に増えた3つの行

4月の給与は、たしかに増えていました。93,821円。前月より7,280円多い金額が振り込まれています。

異変に気づいたのは5月でした。

給与明細の控除欄に、これまで空欄だった行が3つ埋まっていました。

  • 健康保険料・介護保険料 5,699円
  • 子ども・子育て支援金 113円
  • 厚生年金保険料 8,967円

合計14,779円。差し引かれた手取りは79,042円でした。

真由美はしばらく明細を見つめていました。時給が上がる前の手取りは86,541円です。7,499円、少なくなっていました。

「上がったのに、減ってる」

声に出してから、自分でも意味がわからなくなりました。

孝之が明細をのぞき込みます。

「厚生年金って、パートも入るのか」

「入ることになったって、店長に言われた。4月から加入手続きしましたって」

そのときは書類にサインをしただけで、何が起きるのか実感がありませんでした。年金が増えるという説明も受けた記憶があります。ただ、それが何年後の話なのかは聞きそびれていました。

88,000円を超えた瞬間に起きたこと

パートやアルバイトで働く人が社会保険(厚生年金保険・健康保険)に加入するかどうかは、厚生労働省が示す4つの要件で決まります。

  1. 所定内賃金が月額88,000円以上であること
  2. 週の所定労働時間が20時間以上であること
  3. 勤め先の従業員数が51人以上であること
  4. 学生ではないこと

真由美は週21時間の勤務で、勤め先は全国チェーン、学生でもありません。2から4はもともと満たしていました。唯一かかっていなかったのが、1の賃金要件です。

時給951円のとき、月91時間の所定内賃金は86,541円でした。88,000円をわずかに下回っています。

時給が1,031円になると、同じ91時間で93,821円。88,000円を超えました。

厚生労働省は、この構造を資料のなかではっきりと説明しています。時給が1,016円以上になった場合、週20時間以上働くと月額賃金が88,000円以上となり、自動的に賃金要件を満たす、というものです。

秋田県の1,031円は、この1,016円を上回っています。真由美はシフトを1時間も増やしていません。時給が上がっただけで、加入の要件を満たしました。

引かれる保険料は、標準報酬月額をもとに決まります。93,821円の場合は98,000円の等級にあたり、秋田県の2026年度(令和8年度)の料率では、本人負担分は次のようになります。

  • 健康保険料・介護保険料(料率11.63%の半分)5,699円
  • 子ども・子育て支援金(料率0.23%の半分)113円
  • 厚生年金保険料(料率18.3%の半分)8,967円

合わせて14,779円。時給の上昇で増えた7,280円の、およそ2倍です。

リアル家計簿:篠原家(夫46歳・妻42歳・子2人)

収入

  • 夫の手取り(食品卸会社・営業)284,000円
  • 妻のパート収入(社会保険料の控除後)79,042円
  • 児童手当(高校2年生・中学2年生の2人分)20,000円

収入合計 383,042円

固定費

  • 住宅ローン(築14年・固定金利)68,000円
  • 車2台(ローン・任意保険)38,000円
  • 通信費(スマホ4台・光回線)18,000円
  • 生命保険・医療保険(夫婦2人分)24,000円
  • 電気・上下水道 22,000円
  • 長女の塾・模試費 22,000円
  • 長男の部活費・通信教育 8,000円

固定費小計 200,000円

変動費

  • 食費 78,000円
  • 日用品・被服費 15,000円
  • ガソリン代(車2台・通勤と送迎)18,000円
  • 医療費・薬代 6,000円
  • 交際費・こづかい 12,000円

変動費小計 129,000円

特別費(年間支出の月割り)

  • 自動車税・車検・タイヤ交換(2台・年間約216,000円の月割り)18,000円
  • 固定資産税(年間約120,000円の月割り)10,000円
  • 灯油代(11月から3月・年間約90,000円の月割り)7,500円
  • 帰省・冠婚葬祭・家電の買い替え(年間約120,000円の月割り)10,000円

特別費小計 45,500円

貯蓄

  • 学資保険・積立 25,000円

支出合計 399,500円

収支 −16,458円(ボーナスで補填)

篠原家は以前から月次では赤字で、不足分を夏と冬のボーナスで埋めてきました。時給が上がる前の赤字額は8,959円です。それが16,458円になりました。広がった7,499円は、真由美の手取りが減った額とそのまま一致します。

「ボーナスで埋めてる分が、また増えたってことだよね」

真由美がそう言うと、孝之は電卓を置きました。

「美咲の受験、来年だぞ」

週2時間減らすと手取りが5,500円増える

真由美が職場の先輩から聞いたのは、それから2週間ほど経ってからでした。週の所定労働時間を20時間より短くすれば、社会保険の加入対象から外れる、という話です。

計算してみました。

週19時間なら月82時間。時給1,031円で84,542円です。88,000円を下回るので、保険料は引かれません。

いま働いている週21時間の手取りは79,042円。週19時間に減らしたときの84,542円のほうが、5,500円多くなります。

月に約9時間少なく働いて、手取りは5,500円増える。

真由美はその数字を紙に書いたまま、しばらく動けませんでした。7年間、同じシフトを守ってきたのは家計のためです。それが今は、働く時間を削ったほうが家計のためになる、という計算になっています。

「減らせばいいじゃない、っていう話じゃないんだよね」

夕食のあと、真由美は湯呑みを両手で包みながら言いました。

「レジ、いま人が足りてないの。私が抜けた分、誰かが入るわけでしょ」

孝之は黙って聞いていました。

「それに、来年から美咲が大学に行くなら、私はもっと働きたいのに」

2026年10月 「106万円の壁」は正式に消える

厚生労働省は、この賃金要件そのものを撤廃する方針を示しています。

2025年6月に成立した年金制度改正法にもとづき、月額88,000円という要件、いわゆる「106万円の壁」を2026年10月に撤廃する予定です。撤廃の判断は「全国の最低賃金が1,016円以上となること」を見極めて行うとされていました。

その条件は、すでに満たされています。2025年度(令和7年度)の地域別最低賃金は、最も低い高知県・宮崎県・沖縄県でも1,023円。全国加重平均は1,121円です。厚生労働省自身が、すべての都道府県で1,016円を超えたことを撤廃予定の理由として挙げています。

撤廃されると何が変わるのか。金額の基準がなくなり、残るのは「週20時間以上かどうか」だけになります。

真由美のように、すでに時給の上昇で88,000円を超えてしまった人にとっては、実質的な変化はありません。壁はもう消えているからです。変わるのは、これから働き方を考える人の目安が「106万円」という金額ではなく、「週20時間」という時間になる、という点です。

【コラム】企業規模要件は10年かけて撤廃される

もうひとつ、静かに進んでいる変更があります。勤め先の従業員数が51人以上、という企業規模要件です。

厚生労働省の資料によれば、この基準は段階的に引き下げられます。2027年(令和9年)10月から36人以上、2029年(令和11年)10月から21人以上、2032年(令和14年)10月から11人以上、そして2035年(令和17年)10月からは10人以下の企業も対象となり、要件そのものが撤廃されます。

いま「51人未満の職場なら加入しなくて済む」と考えて小さな事業所を選んだとしても、10年のあいだに順番に対象へ入っていくことになります。

なお、企業規模要件の見直しなどで新たに加入対象となる短時間労働者のうち、標準報酬月額が126,000円以下の人については、3年間、事業主が保険料の負担割合を増やして本人の負担を軽くできる特例的な措置が用意されています。事業主が追加で負担した分は、制度全体で支援するしくみです。

増えるものもある

引かれるだけの話ではありません。

厚生年金に加入すると、将来受け取る年金は基礎年金に厚生年金が上乗せされ、しかも終身で支給されます。健康保険に加入すれば、病気やけがで働けなくなったときの傷病手当金、出産で休んだときの出産手当金も対象になります。国民年金の第3号被保険者のままでは受け取れない給付です。

真由美が5月に受けた説明も、おそらくその内容でした。

ただ、月14,779円という金額は毎月やってきます。年間では177,348円です。給付が返ってくるのは、早くても病気になったとき、遅ければ65歳のあとです。

「損か得かって話じゃないんだろうけどさ」

孝之がそう言って、明細をテーブルに置きました。

「今月どうするかは、今月決めないといけないんだよな」

最低賃金はこれからも上がっていきます。上がるほど、週20時間という線は動かないまま、その手前で働ける時間だけが短くなります。時給が上がることと、家計が楽になることは、いまのところ同じ意味ではありません。

篠原家はまだ、シフトをどうするか決めていません。

リファレンス

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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