朝の路地に、打ち水の跡が残っていた。七月の終わり、蝉が鳴き出す前の、まだ涼しい時間である。しおり堂の戸口で、栞さんが木の看板を布で拭いていた。
「あの、もう開いていますか」
声をかけたのは、白いシャツの女だった。肩に通勤用の鞄を提げている。矢野千尋(37歳)。食品メーカーの企画課で、新商品プロジェクトのリーダーをしている。今朝は頭を整理したくて、いつもより一本早い電車に乗り、会社の二駅手前で降りて歩いた。その途中で、この路地に入り込んだ。
「ええ、どうぞ」栞さんは看板を置いて、先に店へ入った。「涼しいうちにいらっしゃるお客さまは、めずらしいんですよ」
店の中は、古い紙の匂いがした。千尋は棚を眺めながら、肩の力が少しずつ抜けていくのを感じた。カウンターの奥で、コーヒーを淹れる音がする。
「お仕事、これからですか」と栞さんが聞いた。
「はい。頭を整理したくて、今朝は手前の駅から歩いてきたんです」千尋は笑おうとして、うまく笑えなかった。「本当は、行きたくないのかもしれません。仕事が、山みたいに積んであって」
「山、ですか」
「プロジェクトのリーダーをしているんですが、結局、全部自分でやってしまうんです。後輩に頼めばいいって、頭では分かっています。でも、説明する時間があったら自分でやったほうが早くて。直すくらいなら最初から自分で書いたほうが早くて。気がついたら、私だけ毎晩残っていて」千尋はカウンターの椅子に腰を下ろした。「歩けば何か変わるかと思ったんですけど、歩いても歩いても、山は減らないんですよね」
栞さんは少し考えてから、棚の奥に手を伸ばした。古い装丁の、箱に入った本だ。「山のお話が、ありますよ」
原典 ── 『列子』湯問篇
昔、九十歳になろうとする愚公という老人がいた。家の前をふさぐ太行・王屋という二つの大きな山を崩し、道を通そうと思い立つ。家族とともに石を運び始めた愚公を、知恵者の智叟が笑った。その年で、山が動かせるものか。愚公は答えた。「わたしが死んでも子がいる。子のあとには孫がいる。子々孫々、絶えることはない。それでも山は、これ以上高くはならない」。その心に天帝が動かされ、二つの山は運び去られたという。「愚公移山(ぐこういざん)。怠らず続ければ、大きな仕事もいつかは成し遂げられる、という意味で使われることばです」
「聞いたことがあります。コツコツ続けなさい、という話ですよね」千尋はコーヒーのカップを受け取りながら言った。「耳が痛いです。私、コツコツやっているのに、終わらないので」
「そう読まれることが多いんですけどね」栞さんはカウンターの内側で、自分のカップを引き寄せた。「わたしは、少し違うところが好きなんです。愚公は、ひとりで掘っていないんですよ」
「ひとりで、掘っていない」
「子も孫も掘っています。近所の男の子も手伝いに来ます。それに愚公は最初から、自分の代で終わらせるつもりがありません。子や孫の代まで続けばいい、と言っている。九十歳の人が始めた仕事なのに、締め切りを自分の寿命に置いていないんです」
千尋はカップを持ったまま、黙った。
「あなたの山は、どうでしょう」
「……私は、全部、自分で終わらせようとしています。今週中に、私の手で、って」
「それで山が動くなら、いいんです」栞さんは静かに言った。「動かないから、毎晩遅くまで残っているんですよね」
しおり堂の処方箋
その山は、ひとりで動かさなくていいのです。「頼るのは、あきらめることだと思っていました」と千尋は言った。「リーダー失格というか。任せて、仕上がりが悪くなったら、結局は私の責任ですし」
「愚公を笑った智叟は、あなたには無理だ、と言いました」栞さんは本の箱を軽く撫でた。「愚公が言い返したのは、『わたしならできる』ではないんです。『わたしのあとにも、人がいる』でした。山はこれ以上増えない。でも、手は増える。それがあの人の勝算です」
「手は、増える」
「それに、結末を覚えていますか。山は最後、愚公が掘り終えたのではありません。天帝が運ばせたんです。言い出した人がひとりで運び切る話ですら、ないんですよ」栞さんは少し笑った。「まじめな人ほど、山の全部を自分の背中に載せようとします。でも、背負った山は動かせません。下ろして、みんなで掘るものです」
千尋は窓の外を見た。路地に、朝の光が差し込み始めていた。午後の会議で、資料づくりをひとつ、後輩に頼んでみよう。説明には時間がかかる。でもそれは、山をあきらめる時間ではなくて、手を増やす時間だ。
「これ、いただいていきます」千尋は『列子』の箱を胸に抱えた。
「行ってらっしゃいませ」と栞さんは言った。
店を出ると、蝉がひとつ、鳴き始めた。千尋の足取りは、来たときより軽かった。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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