七月の終わりの昼下がりだった。アスファルトの照り返しが強く、大通りを歩いていた女は、日陰を探して細い路地に入った。
路地の奥に、木の扉の古書店があった。看板には「しおり堂」とだけある。営業時間も定休日も書かれていない。女は数秒ためらってから、扉を押した。
店の中は、冷房が効いているというほどではなかったが、外よりはずっと涼しかった。
「涼んでいってください」
カウンターの奥から声がした。コーヒーのカップを手にした、若い女性の店主だった。
「すみません、買うかどうか、わからないんですけど」
「もちろん。ゆっくりどうぞ」栞さんはカップを置いて、棚のほうへ軽く手を向けた。「本は売るほどありますよ」
岸本結衣(28歳)は小さく頭を下げて、いちばん手前の棚の前に立った。背表紙を目で追ってはいたが、題名はひとつも頭に入ってこなかった。
しばらくして、彼女は棚を見たまま言った。
「正しいことを言うと、嫌われるものなんでしょうか」
「何かありましたか」
「会社で、経費の精算の期限を守らない人がいるんです。総務なので、催促するのは私の仕事で。何度も遅れる人には、規則ではこうなっていますと、はっきり書いて送りました」
結衣は棚の縁を指でなぞった。
「間違ったことは言っていないと思います。でも、そのあとから、誰も私に雑談をしなくなりました。お昼に誘われることもなくなって。……私、そんなに悪いことをしたんでしょうか」
栞さんは棚の奥に手を伸ばし、古い装丁の本を一冊抜いた。表紙を軽く払ってから、カウンターに置く。
原典 ── 『漢書』東方朔伝
水至って清ければ則ち魚無く、人至って察なれば則ち徒無し。水があまりに澄みきっていると魚は棲みつかず、人があまりに細かく見透かすと、そばにいてくれる仲間がいなくなる。前漢の武帝に仕えた東方朔が、自分の身の処し方を語るなかで引いた言葉として伝わります。
「魚が棲まないのは、水が汚れているからではないんですよ」栞さんは言った。「きれいすぎるからです」
「……きれいすぎる」
「澄みきった水には、餌になる小さなものも、身を隠す場所もありません。魚は、少し濁ったところにしか居られないんです」
結衣は本の表紙を見た。
「でも、規則は規則ですよね。守らないほうが悪いんじゃないんですか」
「悪いか悪くないかで言えば、そうかもしれませんね」栞さんは少し笑った。「ただ、結衣さんが困っているのは、正しさが足りなかったせいではないと思いますよ」
「じゃあ、何が足りなかったんでしょう」
「濁りです」
結衣は顔を上げた。
「私に、汚くなれということですか」
「そうではなくて」栞さんはカップを両手で包んだ。「期限を過ぎた方に催促するとき、規則の話をする前に、何か書きましたか」
結衣は黙った。
「……いえ。規則の条文を、そのまま貼りつけて送りました」
「その条文は、正しかったんですよね」
「正しかったです。今も、正しいと思います」
「正しさは、水のようなものなんです」栞さんは言った。「透きとおっているほど、隠れる場所がなくなります。言い訳をする場所も、間違えていたと認める場所も、相手には残らないんですよね」
結衣は、自分が送ったメールの画面を思い出していた。件名と、条文と、期限の日付。それだけだった。
しおり堂の処方箋
その正しさに、誰も入れません。濁りは、あなたが自分を汚すことではなく、相手が入ってくるための余白のことです。
「余白」結衣は繰り返した。
「『先月はお忙しそうでしたよね』の一言でいいんです」栞さんは言った。「それで規則が緩むわけではありません。ただ、相手が入ってこられる場所が、一か所だけできます」
「……それ、意味があるんでしょうか。期限は変わらないのに」
「変わらないから、意味があるんですよ」栞さんはカップの縁を指でなぞった。「変わるのは、その方が次にどうするかだけです。次に遅れそうなとき、先に一言くれるかどうか。そこが変わると、結衣さんの仕事はずいぶん楽になりますよね」
結衣は少し考えてから、本の背をもう一度見た。それからカウンターの上に手を置いた。
「明日、あの人に、コーヒーのことでも聞いてみます。給湯室でいつも豆から挽いている人なので」
「コーヒーは、いいと思いますよ」栞さんは自分のカップを少し持ち上げた。「わたしも、これで一日が二回くらい始まります」
結衣は笑った。笑ってから、少し驚いた顔をした。この店に入ってから、初めて笑ったことに気づいたようだった。
外に出ると、日差しはまだ強かった。それでも、路地の先に見える大通りは、来たときより遠くまで見わたせた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


