老馬の智「道を覚えているのは 速い馬ではありません」

老馬の智「道を覚えているのは 速い馬ではありません」 しおり堂の処方箋

八月に入って最初の夜だった。生ぬるい風が路地を通り抜けるたびに、しおり堂の軒先に下がった木の板が、かたん、かたんと鳴っていた。

その音に足を止めた女が、板に彫られた字を読んでから、引き戸を開けた。

「まだ、開いていますか」

「ええ」栞さんはカウンターのカップを置いた。「風が鳴るので、もう閉めたと思われることが多いんです」

柴田良子(62歳)は小さく頭を下げて、店に入った。買い物袋を提げたままだった。

「いつもは大通りを歩くんです。今日はなんとなく、こっちに曲がってしまって」

栞さんは扇風機の首を、少しだけ柴田のほうへ向けた。

柴田はゆっくりと棚の前を歩いた。背表紙を読んでいるというより、涼んでいるように見えた。

「ここ、古い本ばかりなんですね」

「新しい本は、新しい本屋さんのほうへ行ってしまうので」

柴田は笑って、それから黙った。棚の同じあたりを、二度見た。

しばらくして、柴田は棚から目を離さないまま言った。

「四月から、事務の手伝いをしているんです。前は学校の給食をつくっていて、六十で辞めて、少し休んで、それでまた働き始めて」

「そうですか」

「でも、まわりが早いんです。入力も、電話の取り次ぎも。わたしが一つ終わらせるあいだに、隣の子は三つ終わっている」柴田は買い物袋を持ち替えた。「昨日、若い子に『わたしがやりますね』って言われて。悪気はないんです。そのほうが早いですから」

「早いほうが、いいと言われて」

「……そのときに、あ、わたしはもう、いなくてもいい人なんだなと思って」

栞さんは少し間を置いてから、棚の奥に手を伸ばした。抜き出したのは、表紙の色が褪せた薄い本だった。

原典 ── 『韓非子』説林上

斉の桓公が孤竹の国を攻めた。春に出発した軍が、帰るころには冬になっていて、道が分からなくなった。管仲が言った。「老馬の智、用うべし」。年老いた馬を隊列から放ち、そのあとについていくと、軍はやがて道に出た。

「老馬の智、といいます」栞さんは本をカウンターに置いた。「年を取った馬の知恵、という意味です」

「馬の話なんですか」

「軍の帰り道の話です。雪で道が消えてしまって、若い馬も、脚の速い馬も、大勢いたはずなんです。それでも、そちらは道を思い出せなかった」

「……その、老いた馬だけが」

「一度通った道を、覚えていたので」

柴田はしばらく黙ってから、「でも」と言った。

「その馬は、一度通っているから分かったんですよね。わたしがいるのは、初めての場所なんです。ずっと調理場でしたから、事務のことは何も知らなくて」

「調理場は、何年いらしたんですか」

「三十八年です」

「三十八年」栞さんは繰り返した。「そのあいだ、うまくいかなかった日は、なかったですか」

柴田は少し考えた。

「……ありました。人が足りない日に、献立を変えずに回さないといけないとか。機械が止まって、全部手作業になったこととか」

「そのとき、どうされたんですか」

「どうって……何から先にやるか決めて、あとは、手の空いている人に頼んで」

「それは、事務の仕事ではありませんか」

柴田は口を開いて、そのまま閉じた。

しおり堂の処方箋

道を覚えているのは、速い馬ではありません。

「あの馬は、走るのが速かったから選ばれたわけではないんです」栞さんは言った。「速さでいえば、若い馬のほうが上だったはずで。それでも管仲は、老いた馬のほうを放しました」

「……道を、知っていたから」

「道というのは、地面のことだけではないと思うんです」栞さんはカップを持ち上げて、少し笑った。「どこで足を取られるか、取られたときに誰に声をかけるか。そういうものも、たぶん道ですよね」

「でも、それは誰にも見えませんよね」

「見えにくいですよね。速さのほうは、見えるので」

柴田は買い物袋を足元に下ろした。

「……昨日の子、電話の取り次ぎがすごく速いんですけど、この前、怒っているお客さんの電話を、そのまま上に回してしまって。あとで課長が困っていました」

「柴田さんなら、どうされましたか」

「……先に、話を最後まで聞きます。聞いてから回します。そのほうが、上の人も身構えられるので」柴田はそこまで言って、自分の言葉に少し驚いた顔をした。「これ、給食のときにやっていたことです。保護者の方からの電話で」

「その道は、もう通っていらっしゃるんですね」

柴田は薄い本をもう一度手に取って、表紙をなでた。

「これ、いただいていってもいいですか」

「どうぞ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。「その本も、ずいぶん長くそこにいましたから」

柴田は一拍おいてから、その言葉の意味に気づいて笑った。

引き戸を開けると、また木の板が、かたん、と鳴った。表の風は少し弱まっていた。歩いていく足取りは、来たときより落ち着いていた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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