お盆の最中の夕方だった。商店街はシャッターの下りている店のほうが多く、路地に入るとさらに静かで、蝉の声も途切れがちだった。しおり堂の窓には灯りがついていた。
ドアが開いて、開襟シャツの男が敷居のところで足を止めた。
「すみません。開いてますか」
「開いていますよ」栞さんはカップをカウンターに置いて答えた。
「この辺、どこも閉まっていて」藤村修一(47歳)は外のほうを指した。「灯りが見えたので、つい」
藤村は棚のほうへ歩いて、背表紙を目で追った。手には何も持っていない。
「うちも休みなんです。9連休の、7日目です」
「長いですね」
「長いです」藤村は苦笑した。「持てあましています」
しばらく、藤村は棚の前を動かなかった。それから、思い出したように言った。
「先月、工場でぼやがありまして」
栞さんは顔を上げた。
「すぐ消えたんです。けが人もいませんでした」藤村は棚を見たまま続けた。「そのあとの朝礼で、社長が、消し止めた班長の名前を呼んで表彰したんです」
「よかったですね」
「よかったです。本当に」藤村は言った。「ただ、わたしは3年前から、あの区画の配線を替えてくださいという書類を出していまして」
言葉が途切れた。
「毎年、通らなかったんです。予算がつかなくて」
「そうですか」
「今年やっと通って、6月に工事しました。火が出たのは、工事していないほうの区画です」藤村ははじめて栞さんのほうを向いた。「工事したほうで出ていたら、工事のやり方が悪かったという話になっていました。工事していないほうで出たので、誰も何も言いません。名前を呼ばれたのは、消した人です」
「ご自分の名前は、呼ばれなかった」
「呼ばれるような話ではないんです」藤村は言った。「何も起きていないので」
栞さんはカウンターを回って、棚の下のほうから薄い本を抜いた。表紙のよれた古い本だった。
原典 ── 『漢書』霍光伝
ある客が主人の家を訪ねると、かまどの煙突がまっすぐで、そのそばに薪が積んであるのを見た。客は主人に言った。煙突を曲げて、薪を遠くへ移しなさい。そうしないと、火事になるおそれがあります。主人は黙ったまま答えなかった。まもなく、その家は本当に火事になった。近所の人たちが一緒に火を消し、どうにか鎮まった。主人は牛を殺し酒を用意して隣人をねぎらい、やけどを負った者を上座に据え、あとは働きの順に座らせた。煙突のことを言った客は、その席に呼ばれなかった。
ある人が主人に言った。あのとき客の言葉を聞いていれば、牛も酒も使わずにすみ、火事も起きませんでした。いま働きを数えて客を招くのに、煙突を曲げ薪を移せと言った人には何の礼もなく、頭を焦がし額をただれさせた人が上座なのですか。
主人はそこでようやく気がついて、その客を招いた。
「曲突徙薪(きょくとつししん)、といいます」栞さんは本を差し出した。「煙突を曲げて、薪を移す。火が出る前にやることのほうです」
藤村は本を受け取って、開いたページに目を落とした。
「これ、もとは例え話なんです」栞さんはカップに手を伸ばした。「ある役人が、有力な一族が力を持ちすぎているので、いまのうちに抑えたほうがいいという文書を3度も出したんです。採用されませんでした。のちにその一族は謀反を企てて滅ぼされて、その動きを告発した人たちには褒美が出ました。その役人にだけ、何も出なかったんです」
「同じですね」
「2000年ぐらい前の話みたいです」
藤村はページをめくった。
「社長を悪く言いたいわけではないんです」と藤村は言った。「消した班長は、本当にすごいので。とっさに動ける人です」
「そう思えるのは、いいことですよね」
「ただ」藤村は言葉を探した。「わたしの3年は、どこにも残らないんだなと思って。書類は通ったので、記録としてはあるんですけど、それだけです。何も起きなかったので」
栞さんは少し考えてから言った。
「起きなかったことは、数えにくいですよね」
「数えられないですよ」
「ええ」栞さんはうなずいた。「数えられないので、朝礼にも、報告書の実績の欄にも出てきません。出てこないものは、無かったことのように見えます」
藤村は黙った。
「でも、工事したほうの区画では、火は出ていません」
しおり堂の処方箋
何も起きなかった日は、誰も数えません。数えられないからといって、無かったことにしなくていいのです。
あなたが曲げた煙突は、いまも曲がったまま、そこにあります。
「この話でおもしろいのは」栞さんは言った。「主人が、最後に気がつくところです」
「呼ぶんですね、その客を」
「呼びます。人に言われて、ようやく」栞さんはカップを置いた。「言われるまで気がつかないのは、意地悪だからではなくて、見えないからだと思うんです。火は見えます。やけども見えます。曲がった煙突は、火が出ないので、見えません」
「見えないものを評価しろというのは、無理な注文ですね」
「無理かもしれません」栞さんは言った。「ただ、あの役人のほうは、その働きを訴える文書を出した人がいたそうです。それで褒美が出たと」
藤村は顔を上げた。
「見ていた人が、いたんですね」
「いました」
藤村は本を持ち直して、裏表紙の値段を確かめた。
「工事していない区画、あと2つあるんです」
「そうですか」
「また出します。通らないと思いますけど」藤村はそう言って、少しだけ笑った。「通らなかった書類も、残るので」
外はまだ明るかった。路地を出るところで、藤村は振り返った。灯りはついたままだった。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
リファレンス
- 教育部《成語典》2020[進階版]「焦頭爛額」(台湾・国家教育研究院) 原典ボックスの訳と、栞さんが語る故事の背景は、このページの「典源」欄に引かれた『漢書』巻六八 霍光伝の原文と「典故説明」欄によりました
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


