木鶏「あの鶏も はじめは影に反応していました」

しおり堂の処方箋

西日が路地の突き当たりの壁に当たって、白い漆喰を橙色にしていた。8月に入って最初の週で、駅前の商店街には帰省みやげの貼り紙が出はじめている。風はまだ生ぬるいが、昼の重さは抜けていた。

引き戸が半分だけ開いて、半袖のシャツの男が顔を出した。ネクタイはゆるめてある。本橋涼介は、鞄を胸の前で抱えたまま、敷居のところで足を止めた。

「まだ、開いてますか」

「ええ、どうぞ」栞さんはカウンターの奥から答えた。

本橋は3歩ほど入って、また止まった。棚を見るというより、店の奥行きを測っているような目だった。

「母から聞いて来たんです」本橋は言った。「本当かどうかは、正直、分からないんですけど。悩んでいるときに行くと、本を1冊、出してもらえる店があるって」

「そこまでのお店なら、わたしも客として来てみたいです」栞さんはカップを置いて、少し笑った。

本橋は棚の前に立った。背表紙を追う目は、途中で止まっている。指は本にふれず、鞄の持ち手を握り直してばかりいた。

「この時間は、少し涼しくなりますね」栞さんが言った。

「……そうですね」本橋は窓のほうを見た。「さっきまで、外にいたので」

「営業のお仕事ですか」

「内勤です。電話とメールばかりで」

本橋は棚から1冊抜いて、開かないまま戻した。

「今日、上司から返事が来たんです」しばらくして、本橋は言った。「送った資料に、了解、とだけ」

「了解、と」

「それだけなんです。それだけなのに、何か怒らせたんじゃないかと思って、そこから3時間くらい、ずっと考えていて」本橋は自分でおかしそうに息を吐いた。「隣の席の人が立ち上がる音とか、送ったメッセージに既読がつくまでの間とか、そういうものに、いちいち反応してしまうんです」

「反応、ですか」

「打たれ弱いんだと思います。34にもなって」

栞さんはカップを置いて、カウンターの下から薄い本を引き出した。表紙の布は擦れて、角の芯が見えている。ページをめくり、途中で手を止めて、本橋のほうへ静かに滑らせた。

原典 ── 『荘子』達生篇

紀渻子という男が、王のために闘鶏を育てました。10日たって王が「もういけるか」とたずねると、紀渻子は「まだです。から威張りして、勢いだけを頼りにしています」と答えます。さらに10日、「まだです。ほかの鶏の声や影に、いちいち応じます」。さらに10日、「まだです。相手をにらんで、気を張っています」。4度目の10日でようやく、「ほぼできました。ほかの鶏が鳴いても、もう変わりません。遠くから見ると、木彫りの鶏のようです」。その鶏を前にすると、ほかの鶏は向かってこず、逃げていったといいます。

「最初の鶏は、から威張りをしています」栞さんは言った。「次の鶏は、声と影に応じています」

「……その、2番目のところが」

「ご自分に近いですか」

「近いです。ずっとそこにいる気がします」

「この話で、ひとつ変わっているところがあるんです」栞さんはページの上のほうを指した。「王は10日ごとにたずねているのに、紀渻子は毎回、まだです、としか答えていません。それでも王は、待っているんですよね」

本橋はページに目を落とした。

「10日を4回、かかっているんです」栞さんは言った。「声と影に応じる鶏は、途中の鶏です。できそこないではなくて」

「途中……」

「途中の鶏を、王は手放していません。育て続けています」

本橋は少し黙ってから、首を振った。

「でも、僕は40日たっても変わらないと思います。もう10年以上、こうなので」

「10年、応じ続けたということですよね」栞さんはカップに口をつけた。「応じるというのは、気づいているということです。気づかない人には、応じようがないので」

しおり堂の処方箋

あの鶏も、はじめは影に反応していました。

「木の鶏になれ、という話として読まれることが多いんです」栞さんは言った。「動じない人になりなさい、と」

「違うんですか」

「わたしは、順番の話だと思っています」栞さんは指を1本立てて、ゆっくり動かした。「から威張り、声と影、にらみ合い、それから木。順番が決まっていて、飛ばせない。飛ばした鶏の話は、この本には出てきません」

本橋はしばらく黙っていた。

「僕は、いきなり木になろうとしていました」

「それだと、木のふりをすることになりますね」栞さんは言った。「ふりをしている鶏は、たぶん、いちばん疲れます」

本橋は本を閉じて、両手で返した。鞄の持ち手をまた握り直したが、さっきより力は抜けていた。

「了解、の件ですけど」本橋は言った。「たぶん、本当に了解なんですよね」

「かもしれません」

「明日、聞いてみます。何か気になるところがありましたか、って」本橋は少し笑った。「聞けるようになるまでに、また10日くらいかかりそうですけど」

「10日で足りるといいですね」

本橋は引き戸を開けた。西日は路地の奥まで届いていて、壁の橙色は、来たときより少しだけ濃くなっていた。

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※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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