風樹の嘆「止まないのは風のほうです」

風樹の嘆「止まないのは風のほうです」のアイキャッチ しおり堂の処方箋

昼過ぎまで降っていた雨が、急にやんだ。軒から水の落ちる音だけが路地に残っている。盆休みの初日で、表通りのシャッターは半分ほどが下りていた。

しおり堂の戸が細く開いて、女が傘の先を外に向けたまま立ち止まった。

「あの、開いていますか」

「開いています。どうぞ」

川瀬麻衣は傘を戸口のわきに立てかけて、店に入った。天井まである棚のあいだに、雨あがりの湿った空気が入り込んでくる。

「近所の方に聞いて来ました」麻衣は言った。「その方も、人から聞いただけだそうです。悩んでいるときに1冊選んでもらうと、少し軽くなる店がある、と」

「そういうふうに言われることがあるみたいです」栞さんは布巾を置いた。「わたしは棚から取っているだけですけど」

麻衣は棚の前をゆっくり歩いた。文庫の背表紙に指をかけて、抜かずに戻した。

「本当かどうかは、あまり考えないで来ました」麻衣はそこで少し笑った。「考えると、来られない気がして」

栞さんはカップに口をつけて、何も聞かなかった。

店の奥のほうまで行って、麻衣は棚のほうを向いたまま立ち止まった。

「母が、ひとりで富山にいます」

「そうですか」

「78歳です。まだ元気で、畑もやっています」麻衣は言った。「去年の盆も、その前の盆も、帰りませんでした。仕事が、と言って。今年もまだ切符を取っていません」

栞さんはカップをカウンターに置いた。

「帰りたくないわけじゃないんです」麻衣は振り向いた。「もう少し、こっちが落ち着いてからと思っていて。パートを正社員に変える話が出ていますし、下の子も来年で手が離れます。そのあとなら、何日でも泊まれるので」

「落ち着いたら、というのは、いつごろですか」

「……2年か、3年」麻衣は自分で言って、口をつぐんだ。「母は、80を超えます」

栞さんは棚の下の段に手を伸ばして、薄い本を引き出した。表紙の紙がやわらかくなっている。それをカウンターの上に置いて、麻衣のほうへ少し押した。

原典 ── 『韓詩外伝』

樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。
旅の途中の孔子が、道ばたで泣いている男に出会う。男は、家を離れているあいだに親を亡くしたと言い、この言葉を残した。

「風樹の嘆、と言います」栞さんは言った。「木が静かにしていたくても、風はやみません。子が親を養おうと思っても、親のほうは待っていてくれない、という意味です」

「……それは、間に合わなかった人の言葉ですよね」

「そうです」栞さんはうなずいた。「間に合わなかった人の言葉だから、残っているんだと思います」

麻衣は本の表紙に手を置いたまま、しばらく動かなかった。

「わたしも、たぶん、そうなります」

「川瀬さんは、いま、何を待っているんですか」

「……仕事が決まるのと、下の子の手が離れるのと」

「それは、川瀬さんが動かせるものですか」

麻衣は少し考えてから、首を振った。「動かせません。会社の話ですし、子どもの話なので」

「風も同じですよね」栞さんは言った。

しおり堂の処方箋

止まないのは風のほうです。

「この言葉を残した人は、自分を責めています」栞さんは言った。「家を離れているあいだに、間に合わなくなった、と」

「はい」

「でも、木は風のせいで揺れています」栞さんはカップを持ち上げて、また置いた。「木が急いでいないから揺れる、という話ではないですよね」

麻衣は顔を上げた。

「川瀬さんが遅いんじゃないと思います」栞さんは言った。「風が止まないだけです。止まないものが止むのを待っていると、動く番が来ません」

「……じゃあ、どうすればいいんでしょうか」

「整っていないまま帰るしかないんだと思います」栞さんは少し笑った。「整った帰り方でなくても、帰ったことにはなりますよね」

麻衣は本を持ち上げて、裏返した。値段の鉛筆書きが薄く残っている。

「これ、いくらですか」

「400円です」

麻衣は硬貨をカウンターに置いた。傘を取って外に出ると、雨はもう完全に上がっていて、濡れた路地に西日が入りはじめていた。彼女は傘を閉じたまま歩き、少し行ったところで足を止めて、鞄から携帯電話を出した。耳に当てるまでに、ずいぶん時間がかかった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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