花冷えの残る、三月の夜だった。
店のドアが、ためらいがちに開いた。コートを着た女が、店内を確かめるように一歩だけ入って、立ち止まった。名は平井早紀、三十四歳。転職してきたばかりの、とある会社のマネージャーだった。
「あの、ここ、しおり堂さん、ですよね」
「ええ」栞さんはカップをカウンターに置いて答えた。
「前の職場の先輩から聞いたんです。悩んでいるとき、ここで一冊選んでもらったら、少し楽になったって」平井はそこまで言って、少し恥ずかしそうに笑った。「本屋さんに何を期待してるんだって話なんですけど」
「本は売るほどありますよ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。
平井は小さく笑って、棚を眺め始めた。だが、背表紙を追う視線は、どこか落ち着かなかった。
しばらくして、平井は言った。「実は、会社で孤立していて」
「孤立、ですか」
「三ヶ月前に、マネージャーとして今の部署に移ったんです。部下は全員年上で、この道二十年みたいなベテランばかりで。私が改善案を出すたびに反対されるんです。会議に出ても、私の意見にうなずく人が一人もいなくて。もう、味方が誰もいないんじゃないかって思うんです」
栞さんは棚の奥から、古びた一冊の本を取り出した。
原典 ── 『史記』項羽本紀
「夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、漢皆已得楚乎、是何楚人之多也」(夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、漢皆すでに楚を得たるか、是れ何ぞ楚人の多きや)秦滅亡後の楚漢戦争の末期、垓下に追い詰められた楚の項羽は、夜、周囲を囲む漢軍の陣営から、故郷・楚の歌が聞こえてくるのを耳にする。楚の民までもが漢に降ったのかと絶望した項羽は、その夜のうちに最後の戦いに向かう。周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいない状況のたとえとして、後世に伝わった。
「四面楚歌、ですよね。聞いたことはあります」
「そう。項羽という将軍が、夜、四方から敵の歌が聞こえてきて、味方はもう誰もいないと悟った、という話です」栞さんはページをめくりながら言った。「よく知られているのは、そこまでなんですけど」
「そこまで、というと」
「項羽が実際に確かめたのは、聞こえてきた歌が楚の歌だった、ということだけなんです。歌っていたのが本当に元・味方だったのか、それとも漢軍の中に楚出身の兵がたまたま多かっただけなのか。そこまでは、確かめていません」
平井は少し黙った。
「一晩の歌声だけで、味方の数を数えてしまった、とも言えるんです」栞さんは続けた。「会議で誰もうなずかなかったからといって、全員が反対しているとは限りません。ただ黙っていただけの人もいたかもしれません」
しおり堂の処方箋
聞こえてくる歌だけで、味方の数を決めなくていいのです。平井は、ふうっと息を吐いた。「黙っている人まで、敵に数えていたかもしれません」
「一人ひとりに、聞いてみるのも手だと思います」栞さんは言った。「歌っている人と、黙って様子を見ている人は、違いますから」
平井は少し表情を緩め、「今度、一対一で話してみます」と言った。それから、思い出したように付け加えた。「先輩の言っていたこと、本当でした」
栞さんは何も言わず、本を棚に戻した。平井は軽く会釈をして、ドアを開けた。夜の冷たい空気が、一瞬だけ店の中に流れ込んだ。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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