朝の路地に、まだ靄が残っていた。前の晩に通り雨があって、敷石の色が濃いままになっている。盆休みまであと1週間で、通りの向こうの八百屋はもう表に水を打ちはじめていた。
しおり堂の引き戸が動いたのは、栞さんが表の板戸を柱に留めたばかりの時間だった。麻のシャツに薄い上着を羽織った女が、戸口でいったん立ち止まる。西野久美子は、店の奥のほうまで目をやってから言った。
「まだ、開いていませんか」
「開いています。どうぞ」
西野は靴の裏を軽く拭ってから、敷居をまたいだ。
この店のことは、かかりつけの医院の待合で耳にしたのだという。看護師が別の患者と話していた内容を、なんとなく覚えていた。悩んでいるときに1冊選んでもらうと少し楽になる古書店が、路地の奥にあるらしい、という程度の話だった。
「……その、噂を聞いて来たんです」西野は自分でも言いにくそうにそう言った。
「そんなふうに伝わっているんですね」栞さんは少し笑った。「棚にあるのは、ふつうの古本ばかりですけど」
西野は入り口に近い棚の前に立って、背表紙を左から右へ目で追った。そのまま端まで行って、また戻ってくる。
「コーヒーを淹れたところです」栞さんは言った。「よかったら」
「いえ、そんな」西野は手を振ってから、少し間を置いて「……いただきます」と言い直した。
カップを受け取った西野は、両手でそれを持ったまま、しばらく棚を見ていた。
「お金の本って、ありますか」
「ありますよ」栞さんは棚の中ほどに目を向けた。「どのあたりの話でしょう」
「どのあたり、というのが、自分でも分からなくて」西野はカップを持ち直した。「去年、母を見送ったんです。少しだけ遺してくれて。それと、わたしの貯金を合わせて1200万円ほどになりました」
「ええ」
「それをどうするか、3年考えているんです」西野は言った。「母が施設に入ったころから、ずっと」
西野は55歳で、週に4日の事務のパートに出ている。夫の定年まではあと5年ある。考えはじめたのは、母の施設の費用を毎月振り込むようになってからだった。
「銀行の窓口では、置いておくだけではもったいないと言われました」西野は指を折った。「雑誌の特集では、その年齢からなら積み立てだと。友人は、自分は全部定期にしたと言っていて。娘は、無理に動かさずそのままでいいと言うんです」
「どれも、置き場所の話ですね」
「そうなんです。それで、ぜんぶ調べました」西野は言った。「窓口の商品も、積み立ても、定期も、動かさずに置いておく場合も。ノートが3冊になりました」
「決まりましたか」
「1つも」西野は首を振った。「調べれば調べるほど、その先にもっと細かい分かれ道が出てくるんです。手数料がどうとか、期間がどうとか。そこでまた止まって、次の日にはまた別のものを調べていて」
「3年、ですか」
「たぶん、いちばん損をしているのは、決めていないこの3年なんだと思います」西野はそう言ってから、カップの中に目を落とした。
栞さんはカウンターの内側の棚に手を伸ばして、細い本を1冊抜いた。紙の縁が茶色くなっている。それをカウンターの上で開いて、西野のほうへ向けた。
原典 ── 『列子』説符篇
楊子の隣の家で、羊が1頭いなくなりました。隣人は身内を集め、さらに楊子の家の使用人まで借りて追いかけます。楊子が「羊1頭に、ずいぶん大勢で行くのだね」と言うと、隣人は「分かれ道が多いのです」と答えました。しばらくして、追いかけた人たちが戻ってきます。羊は見つかりませんでした。分かれ道の先にまた分かれ道があって、どちらへ行ったのか分からなくなったのだといいます。それを聞いた楊子は顔つきを変え、しばらく口をきかず、その日は笑いませんでした。のちに「大道は多岐を以て羊を亡い、学者は多方を以て生を喪う」と伝えられています。「多岐亡羊(たきぼうよう)、と読みます」栞さんは言った。「分かれ道が多いと、羊を見失う、という話です」
「……羊」
「学問の道が広がりすぎると本質を見失う、というたとえに使われることが多いんです」栞さんは言った。「ただ、わたしはこの話を読むと、いつも羊のほうが気になります」
「羊のほう、というのは」
「追いかけた人たちが、途中から道の話しかしていないんです」栞さんは本の行を指でなぞった。「分かれ道が多い。その先にもまた分かれ道がある。どちらへ行ったか分からない。全部、道の話ですよね」
西野は本を覗き込んだ。
「その羊がどこへ行きたかったのかは、誰も口にしていません」栞さんは言った。「羊のことを話さないまま、道の数だけが増えていきます」
「……わたしのノートも、道のことしか書いていません」西野はカップをカウンターに置いた。「どこに置くか、何が有利か。そればかりです」
「西野さんの羊は、どれでしょう」
西野は答えなかった。指先がカップの縁をなぞって、また戻った。
しおり堂の処方箋
あなたが探しているのは、道ではなく羊です。「道は、いくつあってもかまわないんです」栞さんは言った。「困るのは、羊を見ないまま、道だけを見比べているときですよね」
「羊が決まると、何か変わりますか」
「道が減ります」栞さんは言った。「全部は要らなくなりますから」
西野はしばらく黙っていた。表の靄が薄くなって、路地の先の塀が見えはじめている。
「母のとき、施設の費用を毎月振り込みながら、ずっと考えていたことがあって」西野は言った。「わたしが動けなくなったときに、娘に同じことをさせたくないんです。それだけなんです、本当は」
「それが羊ですね」
「言ってしまうと、あっけないですね」西野は小さく笑った。「有利かどうかの話を3年していましたけど、わたし、増やしたかったわけじゃないんだ」
「増やす道と、動かさない道は、行き先が違いますものね」栞さんは言った。「どちらが正しいという話ではなくて、羊の行き先の話です」
西野はノートのことを思い出したように顔を上げた。
「3冊とも、1ページ目が白いままなんです」西野は言った。「表紙をめくって、次のページから金利の数字を書きはじめているので」
「そこは、まだ空いていますね」
「帰ったら、1行だけ書きます」西野はカップの残りを飲んで、両手で返した。「そのあとで、3冊とも読み返してみます。要らない道が、たぶんずいぶんあると思うので」
西野は引き戸を開けた。靄はもう路地の低いところにしか残っていなくて、敷石の色は、来たときより乾きはじめていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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