刎頸の交わり「頭を下げることは、負けではありません」

刎頸の交わり 頭を下げた将軍の強さ しおり堂の処方箋アイキャッチ しおり堂の処方箋

七月の昼下がり。強い日差しが路地の石畳を白く光らせ、蝉の声が途切れずに続いていた。しおり堂の引き戸が開いたのは、店の奥の柱時計が二時を回った頃だった。

入ってきたのは、ポロシャツ姿の男だった。ハンカチで首筋を押さえながら、店内の涼しさにほっとしたように息をつき、ゆっくりと棚を見回した。

「いらっしゃいませ。外は暑かったでしょう」栞さんはカウンターの奥から声をかけ、冷えた麦茶をグラスに注いで差し出した。

「すみません、助かります」男は半分ほどを一気に飲んでから、少し照れたように言った。「娘に聞いたんです。悩んでいるとき、一冊選んでもらうと、少し楽になる本屋さんがあるって」

「うちにあるのは、古い本ばかりですけどね」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。

男は榊原誠一、56歳。食品卸の会社で営業一筋三十年だと、聞かれてもいないのに名乗ってから、しばらく棚を眺めていた。働き方や人間関係の本が並ぶ一角の前で、足が止まった。

「こういう本って、たくさんあるんですね」

「ええ。昔からいちばん多い悩みですから」栞さんは自分のカップにコーヒーを注ぎながら答えた。「二千年前の本にも、ちゃんと書いてあります」

榊原はグラスを両手で包むように持ったまま、少し黙った。それから、意を決したように口を開いた。

「先週、会議で、声を荒げてしまったんです。相手は……年下の上司です」

今年の春、部長に就いたのは、一回り以上年下の後輩だった。データを基に営業先を絞り込む新しいやり方を、次々に打ち出している。長年の得意先を足で回り続けてきた榊原には、それが自分の三十年を否定されているように聞こえた。会議で提案を却下されたとき、気づけば「現場を知らないくせに」と言っていた。会議室が静まり返った。

「翌日から、部長は普通に接してくれています。でも、私のほうが顔を見られない。謝りたいんです。ただ、今さらどう謝ればいいのか。それに……頭を下げたら、自分の三十年まで間違いだったと認めるようで」

栞さんは少し考えてから、棚の奥に手を伸ばした。箱に入った、厚い本だった。

「二千年ほど前に、同じ悩み方をした将軍がいますよ」

原典 ── 『史記』廉頗藺相如列伝

戦国時代、趙の国に廉頗という歴戦の将軍がいた。あるとき、外交の場で国の面目を守った藺相如が、廉頗より高い位に取り立てられる。廉頗は憤り、「あの男に会ったら、恥をかかせてやる」と言いふらした。ところが藺相如は、廉頗をひたすら避け続けた。道の先に廉頗の車が見えれば、脇道へそれた。ふがいなさを恥じる家来たちに、藺相如は言う。「強国の秦が攻めてこないのは、廉将軍と私の二人がそろっているからだ。二人が争えば、共には生きられない。国の急を先にして、私の恨みは後にするのだ」。人づてにこれを聞いた廉頗は、肌を脱ぎ、いばらのむちを背負って藺相如の門前に立ち、罪を詫びた。二人はこの日から、互いのためなら首をはねられても悔いない友となった。

「刎頸の交わり。深い友情のたとえとして覚えている方が多い言葉です」栞さんはページを開いたまま、静かに続けた。「でも、この話のはじまりは友情ではないんですよ。妬みと、意地の張り合いです」

榊原はそのくだりを二度読み返してから、苦笑いした。「……この将軍、私ですね。年下に追い越されて、腹を立てて」

「順番で言えば、そうなりますね」栞さんは否定しなかった。「ただ、榊原さんのお話には、藺相如も出てきています」

「え?」

「会議の翌日、部長さんは榊原さんに何かおっしゃいましたか」

「いえ……何もなかったみたいに、普通に仕事の話を」

「藺相如は、廉頗と争わないために、黙って道を譲り続けました。部長さんが会議でのことに触れずにいるのも、榊原さんと争わないためかもしれませんよ。守りたいものが、同じ職場にあるから」

榊原は、グラスの中で氷が崩れる音を聞きながら、しばらく黙っていた。

しおり堂の処方箋

頭を下げることは、負けではありません。

「廉頗は、国でいちばん強い将軍です」栞さんは本を閉じて、榊原の前にそっと置いた。「その人が、いばらを背負って頭を下げた。この場面が二千年も語り継がれているのは、頭を下げることに、それだけの強さが要るからだと思うんです」

「強さ、ですか」

「ええ。妬みに飲み込まれたときの廉頗は、たしかに弱かった。でも、門の前で頭を下げた日に、自分に勝ちました。将軍の勝ち星の中で、いちばん値打ちのある一勝だった気がしませんか」

榊原は『史記』の箱を手のひらでなでて、それから顔を上げた。「月曜の朝いちばんに、部長のところへ行ってみます。……いばらは、背負っていかなくてもいいですかね」

「ええ」栞さんは初めて少し笑った。「言葉だけで、じゅうぶん伝わりますよ」

会計を済ませて引き戸を開けると、蝉の声がいちだんと大きくなった。日盛りの路地へ出ていく榊原の足取りは、来たときより軽く見えた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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