十一月の昼下がり、薄い日差しが路地の奥まで届いていた。
藤原陽介(27歳)は、散歩のつもりで歩いていた。自宅から塾まで十五分の通い慣れた道とは反対の方角を、あてもなく。角を曲がったところに、古書店があった。「しおり堂」と書かれた小さな看板が、壁にかかっている。
陽介は少し迷ってから、ドアを押した。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、落ち着いた声が聞こえた。若い女性が、コーヒーカップを両手で包むようにして座っている。栞さんだった。
「何かお探しですか」
「いえ、たまたま通りかかって」陽介は棚のほうに目を向けた。古い装丁の本が、整然と並んでいる。「こういう店があるの、知らなかったな」
栞さんはカップをそっとカウンターに置いた。
「ゆっくりどうぞ。急ぐ用事がないなら」
陽介は文庫棚の前に立って、背表紙を眺めていた。指先が一冊の上で止まっては、また動く。それを二、三度繰り返してから、ふと手を下ろした。
「あの、変なことを聞いてもいいですか」
栞さんは小さくうなずいた。
「人のために一生懸命やっているのに、相手が離れていくときって、何が間違ってたんでしょう」
声が少しかすれていた。陽介はそのまま続けた。
「半年前に、小さな塾を始めたんです。生徒は五人で、そのうちの一人が中学三年生の男の子で。高校受験を控えていて、成績が足りなくて。僕なりに、毎日追加の課題を出して、日曜も補習を組んで、保護者の方にも毎週レポートを送って。全部、あの子のためだと思ってやっていたんです」
陽介は棚から目を逸らさないまま言った。
「先週、その子が塾に来なくなりました。お母さんから連絡があって。息子が、もう行きたくないと」
栞さんはしばらく黙っていた。それから、棚の上のほうに手を伸ばして、一冊の薄い本を取った。
「こんな話があります」
原典 ── 『孟子』公孫丑上
宋の国に、自分が植えた苗がなかなか育たないのを心配した男がいた。男は苗の成長を助けようと、一本一本、手で引っ張って伸ばしてやった。くたくたに疲れて家に帰ると、家族に言った。「今日は疲れたよ。苗を引っ張って、育つのを助けてやったんだ」。驚いた息子が畑に走っていくと、苗はすっかり枯れてしまっていた。「苗を引っ張った男の話ですね」栞さんは静かに言った。「この話から生まれたのが『助長』という言葉です。今は『悪いことを促す』という意味で使われることが多いですけれど、もとの話はもう少し切ないんですよね」
陽介は振り返った。
「どういうことですか」
「この男は、悪気がないんです。苗を枯らしたいわけじゃない。早く育ってほしいと本気で思っている。でも、その思いの強さが、苗を根こそぎにしてしまう」
陽介は口を開きかけて、やめた。栞さんは続けた。
「毎日課題を出したのも、日曜に補習を入れたのも、その子のためだったんですよね」
「はい」
「苗を引っ張った宋の男と、同じ気持ちだったのかもしれません。育ってほしいという気持ちが強すぎて、相手が自分で根を伸ばす時間を、奪ってしまっていたのかもしれない」
陽介は黙った。しばらくして、小さな声で言った。
「でも、受験まで時間がないんです。間に合わないかもしれないと思ったら、何もしないでいるのが怖くて」
「何もしないこととは違いますよ」栞さんは薄い本を閉じた。「孟子はこの話のあとで、こうも言っています。草取りをしないのもいけないし、引っ張るのもいけない。つまり、放っておけという話ではなくて、苗が自分で伸びる力を信じたうえで、土の手入れだけは続けなさい、と」
しおり堂の処方箋
その苗は、引っ張らなくても育ちます。「手を放すのは、見捨てることじゃないんです」栞さんはコーヒーカップに手を伸ばした。「その子が自分の足で伸びていけるように、土を整えて、水をやって、あとは待つ。待つのは、何もしないのとは違いますよね」
陽介はその場に立ったまま、天井を見上げて、長く息を吐いた。
「僕、たぶん、あの子のためだって言いながら、自分のためにやってたのかもしれない。塾を始めたばかりで、結果を出さなきゃって。あの子の成績が上がらないと、自分が否定されるような気がして」
栞さんは何も言わなかった。
陽介はしばらくそのまま立っていた。それから目の前の棚に手を伸ばして、一冊の本を取った。
「この本、買ってもいいですか」
栞さんは小さくうなずいた。
ドアベルが鳴って、十一月の冷たい空気が少しだけ入ってきた。陽介は古書店を出ると、来た道とは違う方向に歩き出した。塾までの道だった。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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