※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
今年の2月、片岡直樹さん(53歳・印刷会社の営業部勤務)は新潟県の実家で父を看取りました。母は5年前に他界しており、四十九日を終えた春、築42年の木造の一軒家は「誰も住まない家」になりました。首都圏の自宅で妻の由美子さん(50歳・スーパーのパート勤務)、長女の彩花さん(17歳・公立高校2年)と暮らす直樹さんにとって、それは悲しみの区切りであると同時に、想定していなかった固定費の始まりでもありました。
鍵だけが残った家
遺品の整理は、ゴールデンウィークに家族3人で行いました。仏壇と、父の綿入れと、彩花さんが小さい頃に縁側で撮った写真。段ボールに詰めながら、由美子さんが言いました。
「この家、これからどうするの」
「どうするって言われてもな。……売るのか、って聞かれると、なんか違う気がするんだよ」
遠方に嫁いだ妹とは、実家の建物と土地は直樹さんが、預貯金は妹が、という形で話がまとまりました。妹は「お兄ちゃんに任せる」と言ってくれました。任せる、という言葉のやわらかさとは裏腹に、鍵を預かった瞬間から、この家にかかるお金はすべて片岡家の家計に乗ることになりました。
誰も住まない家に、毎月お金が出ていく
最初に届いたのは、固定資産税の納税通知書でした。実家の分は年間約60,000円。月に直せば5,000円です。掃除や庭木の水やりのために電気と水道の契約は残してあり、使わなくても基本料金が月3,500円ほど。空き家になった家に万一があってはと入り直した火災保険が年間約30,000円。伸びる草は待ってくれないので、業者による草刈りと庭木の手入れが年2回で約60,000円。そして月に1回、様子を見に行く帰省の高速代とガソリン代が往復約12,000円。
ある夜、直樹さんは電卓を置いて由美子さんを呼びました。
「全部ならすと、月28,000円だった」
「え、誰も住んでいないのに?」
「誰も住んでいないのに、だよ」
彩花さんの大学進学に向けて、片岡家は月30,000円の積立を続けてきました。住宅ローンを払い終えたら夫婦で長い旅行に出よう、というのが二人の合言葉でした。誰も住まない家の維持費は、その積立とほとんど同じ金額で、これから期限なく続きます。たった28,000円。そう思おうとしても、進学積立の通帳と並べた瞬間に、重さが変わって見えました。
リアル家計簿:片岡家(夫53歳・妻50歳・子1人)
収入
- 直樹さんの給与(手取り):340,000円
- 由美子さんのパート収入(スーパー・週4日):85,000円
- 収入合計:425,000円
固定費
- 住宅ローン(戸建て・残り12年):87,000円
- 電気・ガス・水道(自宅):24,000円
- 実家の電気・水道の基本料金(管理のため契約継続):3,500円
- 通信費(スマホ3台・Wi-Fi):13,500円
- 生命保険・医療保険(夫婦2人分):21,000円
- 車1台(任意保険など):6,500円
- 固定費小計:155,500円
変動費
- 食費(高2の弁当含む):92,000円
- 日用品・雑費:14,000円
- 彩花さんの塾・模試費(大学受験準備):42,000円
- ガソリン・交通費(自宅分):9,000円
- 実家の管理帰省(月1回・往復の高速代とガソリン代):12,000円
- 医療費・小遣いなど:27,000円
- 変動費小計:196,000円
特別費(年間支出の月割り)
- 自宅の固定資産税・車検・自動車税(年間約190,000円の月割り):16,000円
- 実家の固定資産税(年間約60,000円の月割り):5,000円
- 実家の草刈り・庭木の手入れ(業者・年2回で年間約60,000円の月割り):5,000円
- 実家の火災保険(年間約30,000円の月割り):2,500円
- 冠婚葬祭・家電の買い替え(年間約120,000円の月割り):10,000円
- 特別費小計:38,500円
貯蓄
- 彩花さんの大学進学積立:30,000円
支出合計:420,000円/収支:+5,000円
実家を継ぐ前、片岡家の月々の黒字額は33,000円ありました。実家に関わる支出を合計すると月28,000円。黒字額は5,000円まで細り、相続登記の費用など一時的な出費は貯蓄から取り崩しました。冷蔵庫が壊れたら、その月は赤字です。
「売る」も「貸す」も、すぐには選べない
片岡家のような家は、いま全国で増え続けています。総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」によると、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸で、総住宅数に占める割合は13.8%。いずれも過去最高です。このうち、賃貸用・売却用や別荘などを除いた、いわば行き先の決まっていない空き家は385万6千戸にのぼり、5年前の調査から36万9千戸増えました。
放置すれば済む、という話でもありません。2023年12月に施行された改正空家対策特別措置法では、そのまま放置すれば危険な「特定空家」になるおそれのある家を「管理不全空家」として市区町村が指導・勧告できるようになりました。勧告を受けると、住宅の敷地の固定資産税を軽くしている特例(課税標準を最大6分の1に減額)の対象から外れ、税負担が大きく増える可能性があります。
売るなら家財を片づけ、買い手を探す。貸すなら水回りの改修に数百万円。壊すなら解体費用。どの道にもまとまったお金と決断が必要で、そして思い出は、決断をいちばん遅らせます。縁側の写真を思い出すたびに、直樹さんは電卓を閉じてしまうのでした。
【コラム】相続した家には「3年」の期限がある
2024年(令和6年)4月1日から、相続登記の申請が義務になりました。相続で不動産を取得したことを知った日から3年以内に登記を申請しなければならず、正当な理由なく怠ると10万円以下の過料の対象になり得ます。義務化より前に相続した未登記の不動産にも適用され、こちらは2027年(令和9年)3月31日までが期限です。「とりあえずそのまま」にしてきた実家の名義が、期限付きの宿題に変わっています。片岡家は司法書士に依頼し、登録免許税と報酬をあわせて約150,000円を貯蓄から支払いました。
まとめ
誰も住まない実家の維持費は、片岡家の場合で月28,000円、年間にすると約336,000円。大学進学の積立に匹敵する金額が、住む人のいない家に流れ続けます。空き家は全国で900万2千戸と過去最高を更新し、相続登記には3年の期限、管理を怠れば税の軽減を失うリスクもあります。「売る・貸す・壊す・住む」のどれを選ぶにしても、決めるまでの時間には月々の家賃のようなコストがかかる。相続した家と向き合う最初の一歩は、まず維持費を月額に直して、家計簿に載せてみることかもしれません。
総務省統計局「令和5年住宅・土地統計調査 住宅及び世帯に関する基本集計(結果の概要)」
法務省「相続登記の申請義務化に関するQ&A」
国土交通省「空家等対策の推進に関する特別措置法関連情報」
国土交通省・総務省「空家等対策に係る関連施策等」
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


