長男の三者面談から帰宅した長谷川浩司(46・機械設計エンジニア)は、玄関で靴を脱ぎながら妻の真由美(44・パート事務)に声をかけた。
「担任の先生が言ってたんだけど、最近は国立大学でも値上げするところが出てきてるらしい」
長男は高校2年生。工作が好きで、来年は地方の国立大学工学部を第一志望に、受験勉強を本格化させようとしているところだった。浩司自身も理系の大学を出ており、「国立なら学費は私立よりずっと安く済む」というのが、これまでの家族の共通認識だった。
「え、国立って値上げしないものだと思ってた」
真由美の反応は、浩司が数時間前に担任から聞いたときの反応とまったく同じだった。
その夜、浩司はパソコンを開いて調べてみることにした。「国立大学 授業料 値上げ」と検索すると、思っていたより多くの記事が出てきた。
「値上げしないはず」という前提が崩れた
国立大学の授業料には、文部科学省が定める標準額があり、現在は年535,800円。この金額は2005年度から一度も変わっていない。ただし、省令の規定により、各大学は標準額の120%=年642,960円を上限に、独自の判断で授業料を引き上げることができる。つまり「国が一律で決めている金額」ではなく、「大学ごとに値上げする・しないを選べる金額」だったことに、浩司は初めて気づいた。
2025年度に東京大学が20年ぶりにこの上限まで値上げに踏み切ったのを機に、国立大学の学費引き上げが相次いでいる。電気通信大学は2025年10月31日、公式サイトで正式に発表を行った。学士課程(昼間コース)の授業料を、2026年(令和8年)4月以降の入学者から現行の535,800円から642,960円へ、107,160円(標準額の20%)引き上げるという内容だった。同大学の学長は発表文の中で、授業料を20年間据え置いてきた経緯に触れ、「大学の未来を託す重要な転機」としてこの決断を受け止めていると述べている。同様の値上げは、名古屋工業大学・埼玉大学・山口大学でもすでに決定されている。
長男の第一志望校は、今のところこの値上げ校のリストには入っていない。しかし、浩司が調べた限り、値上げは各大学が個別に判断するものであり、「今は上がっていないから今後も上がらない」という保証はどこにもなかった。
「うちの志望校が値上げしなくても、受験直前になって急に決まる可能性だってあるってことだよね」
浩司のつぶやきに、真由美は黙ってうなずいた。
家計簿:長谷川家(夫46歳・妻44歳・子1人)
収入
- 夫の手取り給与:340,000円
- 妻のパート収入:70,000円
収入合計:410,000円
固定費
- 住宅ローン(変動金利、残り18年):90,000円
- 通信費(スマホ3台・Wi-Fi):13,000円
- 生命保険・医療保険:18,000円
- 車1台(ローン・任意保険・駐車場):32,000円
- サブスクリプション(動画・音楽):4,000円
固定費小計:157,000円
変動費
- 食費:80,000円
- 日用品費:12,000円
- 水道光熱費:22,000円
- 長男の受験対策塾費:35,000円
- 交際費:10,000円
- 被服費:7,000円
変動費小計:166,000円
特別費(年間支出の月割り)
- 固定資産税(年間約12万円の月割り):10,000円
- 帰省・家族旅行(年間約10万円の月割り):8,000円
- 車検・自動車税(年間約8万円の月割り):7,000円
特別費小計:25,000円
貯蓄
- 大学進学費用専用の積立:45,000円(前年35,000円から増額)
支出合計:393,000円
収支:+17,000円
大学進学費用の積立額は、これまで月35,000円で計画していた。国立大学の初年度納付金(授業料535,800円+入学料282,000円)に加え、一人暮らしになった場合の仕送りも見込んだうえでの金額だった。今回、値上げの動きを知ったことで、浩司と真由美は積立額を月10,000円増やし、45,000円に変更することにした。収支の余裕分は、増額前の27,000円から17,000円まで縮んだ。
「塾代もあるし、これ以上は正直きつい」
真由美の言葉に、浩司も頷くしかなかった。値上げが実際に起きるかどうかもわからない志望校のために、いま確実に家計を切り詰める。その判断の重さを、二人とも初めて実感していた。
「20年据え置き」の後にきたもの
国立大学の授業料標準額が2005年度から変わらなかった背景には、家庭の教育費負担を一定に保つという狙いがあった。しかし、その間も大学の運営コストは上昇を続けている。電気通信大学の発表文では、AI技術の発展やグローバル化に対応した教育環境の整備、光熱費や人件費の上昇といった要因が、値上げの理由として挙げられていた。
こうした事情は多くの国立大学に共通するとみられ、今後値上げを決める大学がさらに増える可能性は否定できない。一方で、値上げを決めた大学の多くは、経済的な事情で進学を諦めることがないよう、独自の授業料減免制度や奨学金の拡充もあわせて発表している。長谷川家にとっての実際的な備えは、志望校選びの段階で学費情報をこまめに確認すること、そして進学費用の計画に一定の余裕を持たせておくことに尽きる。
長男の部屋からは、まだ受験勉強を始めたばかりの気配が伝わってくる。浩司はパソコンを閉じながら、来年の今ごろには志望校の学費がどうなっているか、まだ誰にもわからないのだと思った。わかっているのは、増やしたばかりの積立額を、今度は簡単に減らせないということだけだった。
参考文献
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


