夕立が降り出した、七月の夕方だった。
大野瑞穂は傘を持っておらず、慌てて店に飛び込んできた。二十九歳、広告制作会社でチームリーダーを務めている。
「すみません、少し雨宿りさせてもらえますか」
「ええ、どうぞ」栞さんはカップをカウンターに置いて答えた。
瑞穂は入り口近くで髪の水滴を払いながら、棚のほうをちらりと見た。「本、拝見してもいいですか」
「もちろんです」
瑞穂は棚を眺め始めたが、手に取る本もなく、ただ視線だけが背表紙の上を滑っていった。
しばらくして、瑞穂はぽつりと言った。「先週、後輩に言ってはいけないことを言ってしまって」
「言ってはいけないこと、ですか」
「仕事のミスが続いていた後輩に、感情的になって『あなたには向いてない』って。次の週、辞めるって言われました。あの一言のせいだと思うと、謝りたくても、もう遅い気がして」
栞さんは棚の奥から、古びた一冊の本を取り出した。
原典 ── 『拾遺記』
周の呂尚(太公望)は、若い頃、読書にふけって働かず、妻に愛想を尽かされ離縁された。後年、呂尚が斉の地を治める地位に就くと、元の妻が復縁を求めてやってきた。呂尚は盆の水を地面にこぼし、「この水を盆に戻せたなら、求めに応じよう」と言って断ったという。前漢の朱買臣にまつわる類話も伝わる。こぼれた水が二度と盆に戻らないように、一度起きたことは取り返しがつかないことのたとえとして、後世に伝わった。「覆水盆に返らず、ですよね。何かをやってしまったら、もう終わりって話ですよね」
「よく、そう受け取られています」栞さんはページをめくりながら言った。「でも呂尚自身は、その後どうしたと思いますか」
「え」
「盆の水はこぼしたままです。でも呂尚はそこで立ち止まらず、周の軍師として働き続けました。故事が伝えているのは、こぼした水を嘆くなということより、こぼれた後にどう動いたか、のほうかもしれません」
瑞穂は少し黙った。
しおり堂の処方箋
盆に戻すことはできなくても、次に何を注ぐかは、まだ選べます。「謝っても、辞めた決断は戻らないかもしれません」栞さんは続けた。「でも、次にその人と顔を合わせたときに、どんな言葉を選ぶかは、これからのあなたが決められます」
瑞穂は小さく頷いた。「せめて、ちゃんと謝ろうと思います」
「それは、盆に注げる水だと思います」栞さんは静かに微笑んだ。
外の雨はいつの間にかやんでいた。瑞穂は軽く会釈をして、ドアを開けた。夕暮れの湿った空気が、一瞬だけ店の中に流れ込んだ。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


