9月に入ったばかりの昼下がり、日差しはまだ8月のままだった。しおり堂の栞さんは、軒先に手を伸ばして風鈴のひもをほどいていた。
「すみません。ここ、しおり堂さん、ですよね」
声をかけたのは、麻の上着を羽織った女性だった。片手に扇子、片手に大きな布の手提げを持っている。
「はい」栞さんは風鈴を降ろして答えた。
「公民館の受付の方に、本を選んでくれるお店があると聞いたんです。……いえ、話を聞いてくれるお店だったかしら。どちらでしたっけ」
「どちらもしていない日のほうが多いです」栞さんは風鈴を新聞紙にくるみながら言った。「中は少し涼しいですよ」
宮永久江(67歳)は、店に入ってすぐ扇子を閉じた。しばらく棚を見ていたが、やがて手提げから薄い冊子を出した。表紙に「歩こう会 名簿」と書いてある。
「3年前に始めたんです。月に一度、川沿いを歩くだけの会で」
冊子を開くと、12の名前が並んでいた。そのうちの10に、細い線が引いてある。
「みなさん、お忙しいから」と久江は言った。「町内会長さんが一度でも来てくださったら、違ったと思うんです。あの方が来れば、後についてくる方が何人もいますから。あとは3丁目の若いご夫婦。犬を飼っていらして、川沿いをよく歩いていらっしゃるのに」
久江は名前を指でたどりながら、線の引かれた10人の話を続けた。誰がいつ、どんな事情で来なくなったか、順に覚えていた。
「来なかった人の名前ばかり、覚えています」
そう言って、冊子を閉じた。
栞さんはカウンターを離れ、奥の棚から1冊を抜いた。布張りの背に、金の文字が薄く残っている。
「馬の話があるんですが、聞きますか」
「馬、ですか」
「3年探して、手に入らなかった馬の話です」
久江がうなずいたので、栞さんはページを開いた。前の持ち主のものらしい鉛筆の線が、そこだけ引かれていた。
原典 ── 『戦国策』燕策一
燕(えん)の昭王が、どうすれば賢い人を得られるかとたずねました。郭隗(かくかい)は答えました。昔、千金で千里の馬を求めた君主がいました。3年たっても手に入りません。そばに仕える者が「わたしが探してまいります」と言い、君主はその者を行かせました。3か月して千里の馬を見つけましたが、馬はもう死んでいました。その首を五百金で買い、戻って君主に報告しました。君主は激しく怒って言いました。「わたしが求めたのは生きた馬だ。死んだ馬に五百金を捨てて、何になる」
そばに仕える者は答えました。「死んだ馬でさえ五百金で買ったのです。まして生きた馬なら。天下はきっと、王は馬を買える方だと思うでしょう。馬はすぐに来ます」
1年とたたないうちに、千里の馬が3頭来ました。
いま王がまことに賢い人を招きたいのなら、まず隗から始めてください。隗でさえ用いられるのなら、隗より賢い者はなおさらです。千里の道を遠いと思うでしょうか。
そこで昭王は隗のために邸宅を築き、隗を師として仕えました。魏から、斉から、趙から人が来て、賢い人たちは争って燕に集まりました。
「これが、隗より始めよ(かいよりはじめよ)のもとになった話です」
「まず自分を、ですか」久江は少し笑った。「ずいぶん強気な方ですね」
「郭隗は、馬の話をする前にも答えています」栞さんはページを1枚戻した。「先に走って後から休み、先に問うて後から黙る。そうすれば、自分の10倍の人が来る。肘掛けにもたれて杖をつき、横目で見て指図する。そうすれば、下働きをする人が来る」
久江は、閉じた冊子の表紙を見ていた。
「集まる人を決めているのは、来る側ではなくて」
「郭隗が王に求めたのは、まず目の前にいる自分を、厚く遇してくださいということでした」
久江は冊子をもう一度開いた。線の引かれていない名前が2つ残っている。
「大沢さんと、竹内さん」久江は言った。「この2人は、3年、一度も休んでいません。雨の日も来ました」
「その2人には、いつも何と声をかけていますか」
久江はしばらく黙っていた。扇子を持ち直して、また膝に置いた。
「……おはようございます、と」
「それから」
「それから、今日は何人来るかしらね、と」
自分で言って、久江は口を止めた。
「3年、あの2人に、来なかった人の話ばかりしていました」
栞さんは本を閉じ、カウンターに置いた。
しおり堂の処方箋
千金で求めても、3年、馬は来ませんでした。来たのは、死んだ馬に五百金を払ってからです。
久江は本の背を見て、裏表紙に貼られた値札を見て、それから手を引いた。
「今日は、買わずに帰ります」
「はい」
「この話は、覚えて帰れそうなので」
久江が路地を曲がったあと、栞さんは新聞紙の包みを箱にしまった。来年の夏まで、軒先には何も下がらない。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
リファレンス
- 中國哲學書電子化計劃:『戦国策』燕策 燕一の原文を確認(原典ボックスの底本)
- 教育部《成語典》2020[基礎版]:千金市骨の項で、この逸話の出典が『戦国策』燕策一であることと、郭隗の人名表記を確認
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