首鼠両端「迷っているのは どちらも手放せないからです」

首鼠両端 迷っているのは どちらも手放せないからです しおり堂の処方箋

夕立が上がったばかりの路地は、まだ濡れていた。アスファルトから湯気のような匂いが立ちのぼって、七月の終わりの熱がそのまま残っている。

傘をたたみながら、男が一人、しおり堂の引き戸を開けた。

「すみません、こちら、しおり堂さんで合っていますか」

「ええ」栞さんはカウンターの上にカップを置いて答えた。

「よかった」男は肩の力を抜いた。「行きつけの理容店で耳にしたんです。ご主人が別のお客さんと話していて、しおり堂という名前が出てきた。仕事でまいっていた時期に、一冊すすめてもらって、ずいぶん救われたそうで」

「その方に合う本が、たまたまあっただけですよ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。

男は桑原孝之と名乗った。52歳。設備管理の会社で課長をしているという。棚の前を一往復して、それから背表紙のどこも見ていない目で立ち止まった。

「本を買いに来たのか、自分でもよく分かっていなくて」

「急ぎませんよ。雨も上がったばかりですし」

桑原はもう一度棚を見て、それから口を開いた。

「半年、決められないんです」

母親が去年の秋に転んで、それからひとりでの暮らしが難しくなった。実家は新幹線で二時間ほどの町にある。会社には地方の営業所があり、希望を出せば移れる。ただし課長職は外れ、給料も下がる。

「戻るか、残るか。それだけの話なんですけどね」

「半年、決まらなかったんですね」

「妻は、どちらでもいいと言ってくれています。部下には、そろそろはっきりさせてくださいと言われました。……自分でも、往生際が悪いと思っています」

栞さんは棚の奥に手を伸ばして、細い本を抜いた。

原典 ── 『史記』魏其武安侯列伝

漢の武帝の時代、魏其侯と武安侯が朝廷で争った。どちらの言い分が正しいかを問われた御史大夫の韓安国は、両方に理があると述べ、決着をつけなかった。武安侯は後にこれを責め、穴から首だけ出して左右をうかがう鼠にたとえて、なぜ首鼠両端なのかと言った。

「首鼠両端、と読みます」

「聞いたことがあります。どっちつかず、という意味ですよね」

「そう使われてきました」栞さんはうなずいた。「責める側の言葉として」

「まさに、いまの私です」

「責められた韓安国は、どちらの言い分にも理があると分かっていた人ですよね」

桑原は顔を上げた。

「分からなかったから黙っていたのではなくて、分かっていたから決めなかった。ずるいと言われても仕方のない立場でしたけれど、少なくとも中身は空ではなかったんです」

「……私は、空かもしれません」

「半年、何をしていましたか」

桑原はしばらく考えて、答えた。

「営業所の資料を取り寄せました。母のかかりつけの医院に、電話で様子を聞きました。妻の職場が、あちらから通えるかどうかも調べました」

「空ではないですよね」

しおり堂の処方箋

迷っているのは、どちらも手放せないからです。
決まらない時間は、両方の重さを量っている時間です。ただ、穴の中で量らないでください。首は、外へ出したままで。

「鼠が穴から首を出しているのは、外を見るためなんです」栞さんは言った。「首を引っ込めて迷うのと、出したまま迷うのとでは、同じ半年でも中身が違いますよね」

「……見ていれば、いいんでしょうか」

「見ているうちは、たぶん減っていきます。分からないことのほうが」

桑原は少し笑った。

「決めろ、とはおっしゃらないんですね」

「言える立場ではありませんし」栞さんはカップを持ち上げた。「それに、決めた人がそのとき何を量っていたかは、あとから本人にしか分からないので」

桑原は棚から一冊を取って、表紙をしばらく見ていた。

「これ、いただきます」

「厚いですよ」

「電車で二時間ありますから」

引き戸を開けると、路地の空はもう暮れかけていて、濡れた石の上に店の灯りが細く伸びていた。桑原は傘を差さずに歩き出した。その歩みは、来たときより少しだけゆっくりだった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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