※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
4月の頭に届いた封筒を、佐久間芳久は台所のテーブルで開けた。年金額改定通知書。去年より、少しだけ数字が大きくなっている。
「上がってるよ」
流しにいた妻の直子が振り返った。「いくら」
「2人あわせて、月で3800円」
直子は手をふきながらテーブルに来て、通知書をのぞき込んだ。それから、少しだけ笑った。「じゃあ、月に1回、外で食べられるね」
そのときは、2人ともそう思っていた。
年金は2026年度に1.9%上がった
厚生労働省の発表によると、2026年度(令和8年度)の年金額は前年度から引き上げられました。国民年金(基礎年金)は1.9%、厚生年金の報酬比例部分は2.0%のプラス改定です。
金額で見ると、老齢基礎年金の満額は月6万9308円から7万608円になりました。1300円の増額です。会社員だった夫と専業主婦の夫婦2人ぶんの標準的な年金額は、月23万2784円から23万7279円へ。差は4495円です。
数字だけを見れば、確かに増えています。佐久間家の場合、夫婦2人の受給額を合わせて月3800円ほど増えました。
上がり方が物価に追いついていなかった
問題は、その上がり方でした。
同じ厚生労働省の資料には、改定の計算に使った数値も載っています。2025年(令和7年)の物価変動率は3.2%。一方、名目手取り賃金変動率は2.1%でした。実質賃金変動率のマイナス1.1%に、物価変動率の3.2%と可処分所得割合変化率の0.0%を足した結果です。
年金の改定は、物価の伸びが賃金の伸びを上回った場合、賃金のほうに合わせるルールになっています。支え手である現役世代の負担能力に応じた給付にする、という考え方です。さらにそこから、マクロ経済スライドによる調整として、基礎年金は0.2%分、厚生年金の報酬比例部分は0.1%分が差し引かれました。
物価は3.2%上がったのに、年金は1.9%と2.0%しか上がらない。差の1.3ポイントぶんは、受け取る側が負担することになります。
「3800円、増えたんだよな」
6月の終わり、芳久は家計簿のノートをめくりながら、そうつぶやきました。去年の同じ月のページと、今年のページを並べています。
「増えたよ」直子が言いました。
「増えたのに、去年より足りてないんだ」
リアル家計簿:佐久間家(夫68歳・妻66歳・子は独立)
埼玉県の一戸建て。築28年で、住宅ローンは3年前に完済しています。芳久は67歳まで再雇用で働き、去年の春に退職しました。いまは週2日、シルバー人材センターの紹介で植木の手入れに出ています。直子は6年前まで、スーパーのレジのパートに出ていました。
収入
- 夫の老齢厚生年金と老齢基礎年金(2か月ごとの振込を月割り・介護保険料と国民健康保険料の天引き後):12万9000円
- 妻の老齢厚生年金と老齢基礎年金(同):5万5000円
- 夫のシルバー人材センターの配分金(週2日の植木の手入れ):2万4000円
- 収入合計:20万8000円
固定費
- 電気・ガス・水道:2万5000円
- 通信費(スマホ2台・光回線):1万1000円
- 医療保険(夫婦2人分):1万4000円
- 新聞:4400円
- 夫の囲碁教室と妻のコーラス:6000円
- 固定費小計:6万400円
変動費
- 食費(2人・週1回のまとめ買いと生協の宅配):7万2000円
- ガソリンと車の維持(軽自動車1台):9000円
- 医療費(夫の高血圧の通院と妻の整形外科):1万2000円
- 日用品:8000円
- 交際費(法事・見舞い・孫2人への小遣い):1万2000円
- 変動費小計:11万3000円
特別費(年間支出の月割り)
- 火災保険と地震保険(年間4万8000円の月割り):4000円
- 自動車税と車検とタイヤ交換(年間9万6000円の月割り):8000円
- 固定資産税(年間11万4000円の月割り):9500円
- 帰省と法事と冠婚葬祭(年間12万円の月割り):1万円
- 家電の買い替えと住宅の修繕(年間18万円の月割り):1万5000円
- 特別費小計:4万6500円
支出合計と収支
- 支出合計:21万9900円
- 収支:マイナス1万1900円(退職金の取り崩しで補填)
佐久間家の月の家計は、2026年の夏の時点で赤字です。不足分は、芳久の退職金を置いてある口座から毎月移して埋めています。去年の同じ時期は、赤字が月8700円でした。
3800円と、7000円
年金は月3800円増えました。それに対して、去年の同じ月と比べた支出の増え方は、食費が4000円、電気とガスと水道が1800円、日用品が1200円。合わせて7000円です。
差し引きで、月3200円ぶん赤字が広がりました。8700円だった赤字が、1万1900円になった計算です。
「外で食べる、っていう話をしたよね」直子が言いました。「4月に」
「したな」
「あれ、なくなっちゃったってこと?」
芳久はノートの上で指を止めました。増えた3800円は、確かに口座に入っています。数字としては、なくなっていません。ただ、その3800円が届く前に、7000円ぶんの値札が先に上がっていた。それだけのことでした。
それだけのことなのに、説明する言葉が見つかりませんでした。
減っていないのに、足りない
年金生活の家計が苦しくなる場面には、2つの型があります。ひとつは受け取る額そのものが減る型。もうひとつが、佐久間家のように、受け取る額は増えているのに、増え方が物価に追いつかない型です。
後者はやっかいです。通知書には増額と書いてあり、口座の入金額も増えている。当事者ですら、どこで負けているのかがわかりにくい。
マクロ経済スライドは、年金の給付水準を長い時間をかけて調整していく仕組みです。2026年度(令和8年度)は、基礎年金で0.2%、厚生年金の報酬比例部分で0.1%が差し引かれました。1年ぶんだけを見れば、大きな数字には見えません。
ただ、その1年が、佐久間家の家計簿では3200円という形で現れています。
「来年も、上がるとは思うんだ」芳久は言いました。「上がるとは思うんだけど」
直子はノートを閉じて、台所へ戻りました。
「外で食べるのは、孫が来たときにしよう」
まとめ
- 2026年度(令和8年度)の年金額は、国民年金(基礎年金)が1.9%、厚生年金の報酬比例部分が2.0%の引き上げ
- 老齢基礎年金の満額は月6万9308円から7万608円へ。夫婦2人ぶんの標準的な年金額は月23万2784円から23万7279円へ
- 改定に使われた名目手取り賃金変動率は2.1%で、2025年(令和7年)の物価変動率3.2%を下回る
- さらにマクロ経済スライドで、基礎年金は0.2%分、報酬比例部分は0.1%分が差し引かれた
- 佐久間家では年金が月3800円増えた一方、生活費が月7000円増え、月の赤字が8700円から1万1900円に広がった
厚生労働省 2026年度(令和8年度)の年金額改定について 厚生労働省 2026年度(令和8年度)の年金額改定についてお知らせします(報道発表資料)
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