朝から降っていた雨が、昼を過ぎてやんだ。路地の敷石はまだ濡れていて、雲の切れ間から差しはじめた日が、その濡れた面を細く光らせている。8月の、まだ盆には間のある昼下がりだった。
引き戸が開いて、上着を腕にかけた男が入ってきた。宮田隆行は、傘の先から落ちる雫を気にするように、入口で足を止めた。
「濡れたままで、すみません」
「ええ、どうぞ」栞さんはカウンターの奥から乾いた布を出して、入口の脇に置いた。
宮田は布を借りて傘をぬぐい、それを傘立てに入れてから、ようやく奥へ進んだ。取引先を訪ねた帰りだという。予定より早く話が終わったので、駅までの道をわざと遠回りしたのだと言った。
「こういう路地があるとは、知りませんでした」
「わたしも、はじめは迷って来たんです」栞さんはカップに口をつけた。
宮田は文庫の棚の前で立ち止まり、背表紙を上から下へ目で追った。何冊か抜いては戻し、そのたびに指の腹で天の埃を払った。払ってから戻すという順番を、3冊分くり返した。
「本を読む時間が、しばらく取れていなくて」宮田は言った。「取れたとしても、頭に入らないんです。読んでいる途中に、仕事のことが割り込んできて」
「お忙しいんですね」
「忙しいというより……」宮田は言葉を探した。「先月、うちの部署から1人、課長になりました。10歳下の人です」
栞さんは黙って続きを待った。
「その人は、うまいんです。会議で、自分のやったことを説明するのが。わたしは、それがどうしてもできなくて。20年、同じ部署で、同じ仕入れ先とやってきました。値上げの話も、納期の遅れも、間に入って収めてきたつもりです。でも、そういうものは、報告書にすると3行なんですよね」
「3行」
「3行です。誰も、その3行の下に何があったかは見ません。アピールが下手なだけだと言われて、そのとおりだと思うのに、いまさら上手にやる気にもなれなくて」
栞さんはカップを置いて、カウンターの下から1冊を引き出した。函入りの厚い本だった。函から抜き、途中のページを開いたまま、宮田のほうへ静かに滑らせた。
原典 ── 『史記』李将軍列伝
前漢の将軍、李広について、『史記』を書いた司馬遷は、言葉で自分のことを語るのがうまくできない人だった、と記しています。その李広が亡くなったとき、彼を知っていた人も、知らなかった人も、みな同じように悲しんだといいます。司馬遷はその話の終わりに、当時のことわざを引きました。桃李もの言わざれども、下自ら蹊を成す。桃や李の木は何も言わないけれど、その下には、いつのまにか人の通う小道ができている。「桃も李も、宣伝はしませんよね」栞さんは言った。「実がおいしいというだけで、人が来る。来た人が同じところを通るから、草が踏まれて、道になる」
「……はい」
「その道は、木が作ったものではないんです。通った人が作ったものですよね」
宮田はページの端を指で押さえたまま、しばらく黙っていた。
「でも、その道は、上の人からは見えないですよ」
「見えないでしょうね」栞さんはあっさりと認めた。
宮田が顔を上げた。
「見えないから、あなたはずっと、ご自分のことを下手だと言ってこられたんですよね」
「……そうかもしれません」
「仕入れ先のご担当は、あなたの名前を覚えていらっしゃいますか」
「それは、まあ。20年ですから。先方の担当が代わるときも、引き継ぎでわざわざ電話をくれます」
「値上げの話が出たとき、先方が最初に連絡されるのは」
宮田は口を開きかけて、そのまま閉じた。
しおり堂の処方箋
あなたの下には、もう道ができています。「道ができていることと、それが地図に載ることは、別のことですよね」栞さんはカップを持ち上げてから続けた。「地図を描く人は、上から見ています。上からだと、木の下の細い道までは写らないんです」
「写らないなら、意味がないような気もします」
「意味がないなら、通う人がいなくなりますよね」
宮田は少し笑った。笑ってから、開いたページに目を落とした。
「李広という人も、地図には載らなかったのだと思います。ただ、司馬遷という人が、木のほうを見に行った。だから2000年あとのあなたが、いま、その話を読んでいるんですよね」
宮田は本を閉じ、両手で栞さんのほうへ返した。それから、腕にかけていた上着を着直した。
「アピールの練習は、たぶんこれからもしません」
「そうですか」
「でも、下手だ、というのは、もう言わないことにします」
宮田は引き戸を開けた。日は路地の奥まで届いていて、乾きはじめた敷石の上に、影が細く伸びていた。
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