登竜門「門の下にいるのは 海を渡ってきた魚です」

しおり堂の処方箋

夜の路地は、昼の熱をまだ手放していなかった。風がなく、遠くで雷が低く鳴っている。盆休みまであと3日の晩で、表通りの店はどこも早じまいの支度を始めていた。

しおり堂の窓にまだ明かりが残っている時間に、自転車を押した男が路地の入口で足を止めた。チェーンが外れて、ペダルが空回りしている。相馬悠真は、油で黒くなった指先をしばらく見てから、明かりのほうへ歩いた。

「……まだ、開いていますか」

「開いています。どうぞ」

相馬は片手を上げて、指を見せた。「手が、汚れてしまって」

「そこに拭くものがあります」栞さんは戸口のわきの棚を目で示した。

相馬は布で指をこすってから、店の中に入った。天井の低い店で、古い扇風機が棚のあいだで首を振っている。

「本を探しに来たわけじゃないんです」相馬は言った。「明かりが見えたので」

栞さんはカップに口をつけただけで、何も聞かなかった。

相馬は棚の前をゆっくり歩いた。背表紙を目で追い、途中で止まり、また歩いた。3列目の棚の前で、棚のほうを向いたまま口を開いた。

「同期が、来月から本店に行くんです」

「そうですか」

「うちの会社でいちばん人気のある部署で、行くのに試験があります」相馬は自転車の鍵を握ったままだった。「受けたのが70人くらいで、通ったのが3人です」

栞さんはカップを置いた。

「僕は受けませんでした」相馬は言った。「受けても通らないと思って。……いえ、それも言い訳です。落ちるのが怖かったんです」

店の奥で、扇風機が首を返した。

「あの部署に行かないと、この会社では何者にもならない気がして。でも、行けないなら、いま座っている席の意味も分からなくなって」相馬は棚に手をついた。「どちらにしても、行き止まりなんです」

栞さんは椅子から降りて、棚のいちばん下の段に手を伸ばした。糸で綴じた、背の低い本だった。表紙を上にしてカウンターに置き、途中のページを開く。

原典 ── 『後漢書』李膺伝

後漢の李膺は、世が乱れるなかで筋を通しつづけ、その名を高くしていた。李膺に会って言葉を交わすことを許された者は、まわりから「竜門に登った」と言われた。竜門とは黄河の急流の名で、のちに付けられた注が引く『三秦記』には、海から集まってきた大きな魚が竜門の下に何千と群れているが、のぼることのできる魚はわずかで、のぼれば竜になる、と記されている。

「登竜門という言葉が生まれた場面です」栞さんは言った。「のぼった魚の話として使われますけど、ここに書いてあるのは、のぼれなかった魚の数のほうなんですよね」

「……慰めですか」

「数を読んでいるだけです」栞さんは指をページの行に置いた。「門の下に何千匹いる、と書いてありますよね」

相馬はページをのぞき込んだ。

「その何千匹が、どこから来た魚なのかも書いてあるんです」栞さんは言った。「海から来た大きな魚です。川で生まれて川にいた魚のことは、この話に出てきません」

相馬は黙った。扇風機が向きを変えるたびに、ページの端が少しめくれた。

「その試験は、誰でも受けられるものなんですか」

「……全員です。手を挙げれば」

「会社は何人ですか」

「800人くらいです」

「800人のうち、70人が門の下まで行ったんですね」

「僕は行っていません。手を挙げていないので」

「怖いと思ったのは、いつですか」

「……去年の秋です。要項が回ってきた日に、締め切りまで何日あるかを数えました」相馬は言った。「数えて、そのままにしました」

「日数を、数えたんですね」栞さんはページから指を離した。

しおり堂の処方箋

門の下にいるのは、海を渡ってきた魚です

「門の場所を知らない魚は、そこまで行きません」栞さんは本を開いたまま言った。「締め切りまでの日数を数える人は、もう門の下にいますよね。のぼるかどうかは、そのあとの話です」

「……のぼれなかったら、行かなかったのと同じじゃないですか」

「のぼれなかった魚は、そのあとどうなったと思いますか」

相馬はしばらく考えた。「……戻るんですかね。海に」

「戻って、また来られます」栞さんは少し笑った。「竜になってしまったら、もう魚には戻れませんけど」

相馬は、握ったままだった自転車の鍵をカウンターの上に置いた。

「来年も、あるんです。試験」

「そうですか」

「落ちても、たぶん、僕は会社にいます」相馬は言って、自分の言い方に少し驚いた顔をした。「いるんですよね。落ちても」

栞さんは答えず、糸綴じの本をカウンターの端に寄せた。

「これ、いくらですか」

「300円です」

相馬は汚れていないほうの手で硬貨を置いた。外に出ると、雷はさっきより近いところで鳴っていた。自転車のチェーンは外れたままで、彼はそれを押して路地を出ていく。押しながら片手で鞄の中を探っているのが、明かりの届くところまで見えた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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