孟母三遷「動いたのは 子どもではありませんでした」

孟母三遷 動いたのは母のほうでした しおり堂の処方箋 しおり堂の処方箋

八月に入って二日目の午前だった。朝から低い雲が動かず、風もない。路地の奥では、蝉の声がまばらに落ちていた。

しおり堂の引き戸が半分ほど開いて、そこで止まった。それからもう一度押されて、女が一人、店のなかをのぞくように立った。

「……入っても、いいですか」

「ええ、どうぞ」栞さんはカウンターのカップを置いた。

森崎千夏(36歳)は、トートバッグの肩紐を両手で握ったまま、敷居をまたいだ。

「学校の役員の集まりの帰りに、同じ班の方が話しているのが聞こえたんです。この路地に、選んでもらった本がよく効く店があるとか」千夏はそこで少し言い淀んだ。「その方も、行ったことはないそうなんですけど」

「よく効くかどうかは、読んだ方が決めることですよね」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。

千夏は棚の前をゆっくり歩いた。文庫の並びを過ぎて、絵本と児童書の背表紙が集まっているあたりで足が止まった。

「何かお探しですか」

「いえ。探している本があるわけでは、なくて」

栞さんはうなずいて、それ以上は聞かなかった。

千夏はしばらく同じ棚を見ていた。指が一冊の背に触れて、抜かないまま離れた。

「四年生の息子がいるんです」千夏は棚を見たまま言った。「六月の終わりから、朝になるとお腹が痛いと言うようになって」

「そうですか」

「病院では、どこも悪くないと言われました。学校の門のところまでは行けるんです。でも、そこから先に入れなくて」

栞さんはカップを持ったまま、黙って聞いていた。

「いろいろ変えてみたんです」千夏は指を折るようにして数えた。「起こし方を変えて、朝ごはんを変えて、褒め方の本を読んで、叱るのをやめて、夜は早く寝かせて、ごほうびの約束もしてみて」

「たくさん変えられたんですね」

「全部やって、何も変わらなくて」千夏はやっと栞さんのほうを向いた。「たぶん、私のやり方が悪いんだと思います。あの子ではなくて、私のほうが」

栞さんは少し間を置いてから、棚の下の段に手を伸ばした。抜き出したのは、布の表紙の薄い本だった。ページを開いて、カウンターの上で千夏のほうへ向ける。

原典 ── 『列女伝』母儀・鄒孟軻母

孟子の家は、はじめ墓地のそばにあった。幼い孟子は、葬いのまねをして遊んだ。母は「ここは我が子を住まわせる場所ではない」と言い、市場のそばへ移った。すると孟子は、商人が値をつけて売り買いするまねをして遊んだ。母はまた「ここも我が子を住まわせる場所ではない」と言い、今度は学校のそばへ移った。孟子は、器を並べて礼の作法をまねるようになった。母は「ここなら、本当に我が子を住まわせられる」と言って、そこに住みついた。

「孟母三遷、といいます」栞さんは言った。「孟子の母親が、三度、住む場所を変えた話です」

「……聞いたことがあります」千夏はページに目を落とした。「教育熱心なお母さんの話ですよね。うちは、引っ越しなんてとても」

「引っ越しの話として読まれることが多いですね」栞さんはカップをカウンターに戻した。「ただ、この短い話のなかに、母親が息子に言った言葉が、一つも出てこないんです」

千夏はもう一度、はじめから読んだ。

「墓のまねをする子に、やめなさいとは言っていません。商いのまねをする子にも、何も言っていない。三度とも口にしたのは、ここは子を住まわせる場所ではない、ということだけです」

「……場所のせいにしている、ということですか」

「子のせいにしていない、とも読めますよね」

千夏は本の上で指を止めた。

しおり堂の処方箋

動いたのは、子どもではありませんでした。

「さっき、変えたものを数えていらっしゃいましたよね」栞さんは言った。「起こし方、朝ごはん、褒め方、叱り方、寝る時間、ごほうび」

「はい」

「どれも、息子さんに向けて変えたものですよね」

千夏は口を開きかけて、そのまま閉じた。

「……ほかに、何を変えればいいんでしょう」

「孟子の母親が変えたのは、まわりのほうでした」栞さんはカップに残ったコーヒーを飲んで、少しだけ笑った。「息子さんのまわりにあるもののうち、お母さんが動かせるものはどれか、というふうに数え直すと、たぶん数が変わります」

「……まわり」

「担任の先生、通う道、家を出る時間、保健室。私はよく知りませんけれど、家のなかの朝の順番も、まわりですよね」

千夏はしばらく黙っていた。

「そういえば」と、千夏は言った。「担任の先生には、まだ一度も相談していません。恥ずかしくて。……夫にも、ちゃんと話していないです。あの子のことだと思っていたので」

「孟子の母親も、三度動いています」栞さんは本を閉じて、表紙の埃を指でぬぐった。「一度で当たったわけではないんですよね」

千夏は小さく笑って、それから目もとを指でおさえた。

「その本、いただけますか」

「どうぞ」

千夏は本をトートバッグに入れた。入ってきたときと同じように肩紐を持ったが、握り込んではいなかった。

「明日の朝、門のところまで一緒に行きます」千夏は言った。「行って、先生に声をかけてみます。あの子に話させるのではなくて、私が」

「そうですか」

引き戸を開けると、外はまだ曇っていた。雲は低いままで、蝉の声も来たときと変わらない。千夏はトートバッグのなかの日傘に手を触れて、開かないまま路地を戻っていった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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