五月の風が、路地裏の古書店の扉を揺らしていた。
入ってきたのは、袖口にかすかな水の染みを残したままの、若い女だった。店内を見回して、一度だけ小さくうなずく。
「あの、しおり堂さんですよね。大学の友達に聞いて」
「ええ」栞さんはカウンターから顔を上げた。「どうぞ、ゆっくり見ていってください」
本多菜月(23歳)は棚に沿って歩きながら、背表紙を目で追った。指先が一冊に止まりかけて、すぐに離れる。また別の棚へ移る。何かを探しているようでいて、何を探しているのか自分でもわかっていないような動き方だった。
「お花の仕事ですか」
栞さんが声をかけたのは、菜月のエプロンの裾から覗いた小さな葉のかけらに気づいたからだった。
「ああ、これ」菜月は襟元を見下ろして苦笑した。「はい。駅前の花屋で働いてます。去年から」
「いい仕事ですね」
「そう、なんですけど」
菜月はしばらく黙った。棚の前に立ったまま、視線を本の背表紙に落としている。
「最近、自分の花束がわからなくなっちゃって」
静かな声だった。栞さんは何も言わずに待った。
「SNSで人気のお花屋さんがいるんです。ブーケの色合わせとか、ラッピングの仕方とか、写真の撮り方まで全部すごくて。最初は参考にしてただけなんですけど、いつの間にか、その人と同じ組み方をしないと不安になってきて」
菜月は小さく息を吐いた。
「店のレイアウトも変えました。接客の言葉遣いも真似しました。それで確かに少しお客さんは増えたんですけど、この間、常連さんに『最近、なんか雰囲気変わったね』って言われて。褒め言葉じゃない感じで」
「それで」
「自分で花束を組もうとしたら、手が止まっちゃったんです。この花とこの花、合わせていいんだっけ、って。前は考えなくても手が動いたのに」
栞さんは少し考えてから、棚の低い位置に手を伸ばした。古い装丁の、薄い本を引き抜く。
原典 ── 『荘子』秋水篇
燕の国の寿陵という町に、ひとりの青年がいた。趙の国の都・邯鄲では人々の歩き方が美しいと聞き、それを学びに出かけた。しかし邯鄲の歩き方は身につかず、そのうえ自分のもともとの歩き方まで忘れてしまい、這って故郷に帰るしかなかった。「歩き方を、忘れちゃったんですか」菜月は本を見つめたまま言った。
「ええ。邯鄲の歩みという故事です。都会の洗練された歩き方に憧れて、全部真似しようとした結果、自分の歩き方まで失ってしまった」
「……まさに、それです」
「でもね」栞さんはカウンターに肘をついた。「この話で大事なのは、青年が歩き方を本当に忘れたかどうか、ではないと思うんです」
「どういうことですか」
「這って帰るって、すごく大変ですよね。でも帰ったんです。邯鄲にそのまま居続けて、邯鄲の人になろうとはしなかった。格好悪くても、自分の国に帰ろうとした。そこに、彼の足がまだ覚えていたものがあるんじゃないかなって」
菜月は何か言いかけて、口をつぐんだ。
しおり堂の処方箋
あなたの足は、ちゃんと歩き方を覚えています。「花束の組み方を忘れたって言いましたよね。でも、その人の真似をする前に、自分で花束を組んでいた時間があったわけでしょう」
「はい。でも、あの頃のやり方って、なんていうか、自己流で」
「自己流って、悪い言葉みたいに聞こえますけど」栞さんは少しだけ笑った。「手が考えなくても動いた、っておっしゃいましたよね。それは自己流じゃなくて、あなたの流儀ですよ」
菜月はエプロンの紐を鞄から引っぱり出して、手の中で丸めた。
「常連さんが気づいた『変わった』は、たぶん、菜月さんの流儀が見えなくなったということだと思います。その人の花束が悪かったわけじゃなくて、菜月さんの花束が来なくなったのが寂しかったんじゃないかな」
「……戻れますかね。自分のやり方に」
「這ってでも帰った青年がいますから」
菜月は小さく笑った。それからエプロンの紐を鞄にきちんとしまい直して、立ち上がった。
「ありがとうございます。明日、久しぶりに、何も見ないで一つ組んでみます」
「いい花束になりそうですね」
扉が閉まると、五月の風がもう一度、棚の上の栞を揺らした。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


