9月の半ばを過ぎた、雨上がりの夕方だった。しおり堂の軒からは、まだ雨粒が一滴ずつ落ちていた。栞さんは入口の脇に出していた小さな立て看板を、店内へ戻すところだった。
「すみません。この道、駅に抜けますか」
折り畳み傘を持った男が、店先から声をかけた。
「抜けます。次の角を左です」
男は礼を言いかけて、看板の文字を見た。それから、ガラス戸の向こうに並ぶ本へ目をやった。
「もう閉店ですよね」
「まだです」
男は少し迷ってから、戸を引いた。
宇佐美尚人、43歳。肩に掛けたトートバッグの口から、ノートの角と薄い参考書の背がのぞいていた。棚を2列ほど見て回ったあと、宇佐美はレジのほうを振り返った。
「集中できる本、ありますか」
栞さんは、戻した立て看板の脚についた水滴を布で拭いていた。
「集中するための本ですか」
「そうです。社内の昇格試験まで2か月なんですけど、全然進まなくて」
参考書は買った。動画講座も契約した。学習管理のアプリも3つ入れた。昨日は21時に机へ向かったのに、ノートの色分けを決め直し、動画の再生リストを並べ替え、気づけば23時を過ぎていたという。
「道具から整えないと、始められないんですよ」
栞さんは布をたたみ、レジの下へしまった。
「始める前の荷物としては、かなり重そうですね」
宇佐美は自分のバッグを持ち上げた。
「実際、重いです」
その言い方が自分でもおかしかったのか、宇佐美はバッグを床に戻した。
「そういうのを、やめる本ってあります?」
栞さんは返事をせず、奥の棚へ歩いた。少しして、古びた『韓非子』を1冊持って戻ってきた。
「勉強法の本じゃないです」
「それは助かります。勉強法の本は、もう多いので」
原典 ── 『韓非子』外儲説左上
鄭で真珠を売る楚の人が、木の箱を作り、香料で香りをつけ、宝石などで飾りました。鄭の人はその箱を買い、真珠を返しました。これは箱を売るのが上手とはいえても、真珠を売るのが上手とはいえない、とされています。
宇佐美は、箱のくだりをもう一度読んだ。
「箱、相当きれいだったんですね」
「そう書かれています」
栞さんはページの端を指で押さえた。
「買櫝還珠(ばいとくかんしゅ)、といいます。箱を買って、真珠を返す話です」
宇佐美はしばらく本を見ていた。
「参考書より先に勉強法の本を読んで、勉強を始める前にアプリを比べて、ノートを作り直して……」
そこで言葉を切った。
「俺、箱ばかり買ってるのかもしれません」
栞さんは本を開いたまま言った。
「箱は、捨てなくていいんです」
宇佐美が顔を上げた。
「真珠まで返さなければ」
しおり堂の処方箋
箱は、捨てなくていい。
真珠まで返さなければ。
宇佐美は処方箋の言葉を見てから、バッグの中をのぞいた。
「ノートも、アプリも、捨てなくていいんですね」
「捨てる話ではありません」
「じゃあ、何が真珠なのかを決めるほうが先か」
栞さんは答えなかった。
宇佐美は『韓非子』を閉じ、そのままレジへ持っていった。
「これを買うのも、箱ですかね」
栞さんは値札を読み、レジに金額を打ち込んだ。
返事の代わりに、小さな電子音が鳴った。
店を出るころには、軒から落ちる雨粒も止まっていた。
宇佐美は数歩先でスマートフォンを取り出した。画面には、学習管理アプリからの通知が3つ並んでいた。
ひとつずつ眺めて、どれも消さずにポケットへ戻した。
バッグの中では、新しく買った『韓非子』と、まだ使い切っていないノートが並んでいた。
*しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。*
リファレンス
- 教育部《成語典》「買櫝還珠」:典拠・原文・語義・語注を確認
- 四字熟語辞典オンライン「買櫝還珠」:日本語での読みを確認
※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。


