呉下の阿蒙「あの頃のあなたは もういません」

呉下の阿蒙「あの頃のあなたは もういません」 しおり堂の処方箋

七月の終わりの朝だった。前の晩に雨が降ったせいか風はなく、空は薄い雲におおわれている。開いたばかりのしおり堂に、日差しはまだ届いていない。

栞さんがカウンターでコーヒーを淹れていると、引き戸が半分だけ開いた。

「おはようございます。……もう、大丈夫ですか」

「もちろん。どうぞ」

入ってきたのは、出勤の途中らしい女だった。篠原真希(44歳)。通勤鞄を肩にかけたまま、店の中を見回している。

「駅前の喫茶店で、常連の方が話しているのを耳にしたんです。この路地の奥に古い本屋があって、悩んでいるときに一冊選んでもらったら、少し楽になったって」

「本は売るほどありますよ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。

篠原は棚の前に立った。背表紙を追う目は、どこか上の空だった。しばらくして、鞄の持ち手を握り直す。

「うちの会社、来月から社内公募が始まるんです。新しい事業の立ち上げで、経験は問わないって書いてあって」

「応募されるんですか」

「……たぶん、しません」篠原は少し笑った。「十年前に、大きなミスをしたんです。取引先に迷惑をかけて、上司が謝りに行って。それ以来、大きな仕事の話が出ると、まず『私には無理だ』と思うようになりました」

「十年前の話が、まだ続いているんですね」

「終わっていないんだと思います。周りも、たぶん覚えていますし」

栞さんはカップを置いて、カウンターの内側の棚に手を伸ばした。取り出したのは、背の色が褪せた古い歴史書だった。

原典 ── 『江表伝』(『三国志』呉志 呂蒙伝の注に引く)

呉の武将である呂蒙は、若い頃、戦さの腕はあっても学問がないと見られていた。主君の孫権に勧められて書を読みはじめた呂蒙と、あるとき魯粛が語り合う。その見識に驚いた魯粛は、もはや呉にいた頃の阿蒙ではない、と言った。阿蒙とは、昔なじみが呼んでいた呂蒙の愛称である。呂蒙はこう返したと伝わる。士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。

「刮目というのは、目をこすってよく見る、という意味です」栞さんはページを指でたどった。「三日会わなければ、その人はもう別人だと思って、目を見張って見直しなさい。呂蒙はそう言ったんですね」

「……立派な話ですね。私とは逆です」

「逆ですか」

「私は十年、同じ場所に立ったままです」

「魯粛が驚いたのは、呂蒙が変わったからです。でも、もうひとつ驚いたことがあると思うんです」栞さんはページから目を上げた。「自分が、十年前の呂蒙のままの目で見ていたことに」

篠原は黙った。棚の背表紙に置いていた指が、途中で止まっている。

「呉下の阿蒙という言い方は、少し意地悪ですよね。昔なじみが呼んでいた愛称のままで人を見る、ということですから」栞さんはカップに口をつけた。「あなたの中の誰が、いちばん長く『あの頃の篠原さん』を覚えているんでしょう」

「……私です」

「周りの方は、案外もう更新しているかもしれません」

「更新、ですか」

「ええ。人の記憶は、思っているより雑ですから」栞さんは少し笑った。「十年前の失敗を毎日思い出しているのは、たぶんこの世でおひとりだけです」

「……そうだとしたら、少し悔しいですね」

「悔しいと思えるうちは、まだ更新できますよ」

しおり堂の処方箋

士別れて三日ならば、刮目して相待つべし。目を洗って見直す相手は、他人だけではありません。十年ぶりに会う人として、ご自分を見てあげてください。

「あの頃のあなたは、もういません」栞さんは本を閉じた。「十年分の仕事を、この十年でされたはずです。失敗のあとに何をしたかは、失敗と同じくらい、あなたの経歴です」

「……そこは、数えていませんでした」

「数えるのは、応募用紙を書きながらでも間に合います」

篠原は少し考えてから、腕時計を見た。始業まではまだ時間があるらしかった。

「その本、いただけますか。持って帰ろうかな」

「ありますよ。ただ、厚いので鞄が重くなります」

「今日は、それくらいでちょうどいい気がします」

引き戸を開けると、雲の切れ間から日が差していた。篠原は鞄を持ち直して、駅のほうへ歩いていった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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