※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
8月の最初の日曜日、藤沢麻里は台所のテーブルで7月分の家計簿を締めていました。長男の藤沢颯太が部活から帰ってきて、制服のシャツを洗濯機に放り込みます。
「シャツ、もう1枚いる」
「4月に買ったばかりでしょう」
「小さい」
麻里は電卓を置いて、颯太の背中を見ました。入学式の写真より、たしかに背が伸びています。
夫の藤沢直人が台所に来たのは、そのあとでした。
「どうだった、7月」
「足りない」麻里は電卓の表示を見せました。「4万7000円」
直人はしばらく数字を見ていました。「6月と、ほぼ同じか」
「うん。8月も同じだと思う」麻里は言いました。「去年の7月は、4000円だったんだよ」
受かったら塾は終わる。去年はそう数えていた
颯太が中学受験の塾に通っていたのは、昨年の12月までです。小学4年の冬に入り、6年の秋には週4回になっていました。
去年の暮れ、麻里は家計簿の余白に、合格したら消える費用を書き出しています。
- 受験用の塾の月謝
- 夏期講習と冬期講習の積立
- 毎月の模試代
- 志望校別の特訓講座
- 過去問と問題集の代金
合計すると、月4万5000円ほどでした。年に直せば54万円です。
文部科学省の2023年度(令和5年度)子供の学習費調査によると、公立小学校の第6学年の学校外活動費は年30万7345円で、そのうち塾や通信教育などの補助学習費が年18万6559円を占めます。藤沢家の年54万円は、この平均を大きく超えていました。
「これが全部なくなるんだよ」去年の12月、麻里は直人にそう言いました。「受かったら、家計は楽になる」
直人も同じように思っていました。受験は期限のある支出だと考えていたからです。
私立中学校の学習費は年156万359円 公立の2.9倍
同じ調査で、中学校の学習費総額を見ると、公立が年54万2450円、私立が年156万359円です。公私の比率は1対2.9になります。
内訳を分けると、差がどこにあるかが見えます。授業料や通学関係費などの学校教育費は、公立が年15万761円、私立が年112万8061円です。比率は1対7.5になります。
藤沢家が4月から払い始めたのは、まさにこの部分でした。授業料と施設費の月納金が5万8000円、通学定期が月8000円です。
問題は、その先にありました。
塾をやめられなかった
同じ調査で、塾や習い事などの学校外活動費を見ると、公立中学校が年35万6018円、私立中学校が年42万2981円です。比率は1対1.2で、私立のほうが多くなっています。
私立中学校の学校外活動費のうち、塾や通信教育などの補助学習費は年23万6986円で、学校外活動費の56.0%を占めます。私立に入っても、塾に通う費用が消えるわけではないという姿が、平均として表れています。
藤沢家でも同じことが起きました。5月の面談で、颯太の数学の進み方が学校の進度に追いついていないと言われたのです。
「入ってからのほうが速いんです」担任はそう説明しました。中高一貫の課程では、中学の内容を2年で終える学校が少なくありません。
颯太が通い始めたのは、受験のときとは別の塾でした。学校の授業に合わせて進める補習の教室で、週2回、月2万2000円です。
受験の塾代の月4万5000円は、たしかに消えました。代わりに入ってきたのが次の3つです。
- 私立中学校の授業料と施設費の月納金:5万8000円
- 通学定期(私鉄と地下鉄の2区間):8000円
- 学校の進度に合わせた補習塾(週2回):2万2000円
合計で月8万8000円。消えた4万5000円を差し引いても、月4万3000円の増加になります。年にすると51万6000円です。
「終わりだと思ってたところが、始まりだったってことか」直人は言いました。
リアル家計簿:藤沢家(夫45歳・妻43歳・子2人)
埼玉県の賃貸マンション。3LDKで、駐車場は同じ敷地にあります。直人は受託開発のソフトウェア会社に勤め、麻里は医療事務のパートに週4日出ています。長男の颯太は私立中学の1年、長女の藤沢陽菜は小学4年です。
収入
- 夫の手取り(ソフトウェア会社勤務・賞与は年2回で別):36万5000円
- 妻のパート収入(医療事務・週4日):8万6000円
- 児童手当(中学1年と小学4年の2人分):2万円
- 収入合計:47万1000円
固定費
- 家賃(3LDK・駐車場込み):11万2000円
- 私立中学校の授業料と施設費の月納金:5万8000円
- 長男の通学定期(私鉄と地下鉄の2区間):8000円
- 長男の補習塾(週2回):2万2000円
- 長女の習い事(水泳とピアノ):1万2000円
- 通信費(スマホ3台・光回線):1万4000円
- 生命保険と医療保険(夫婦と子ども2人分):2万3000円
- 車1台(ローンと任意保険):3万1000円
- 電気・ガス・水道:2万6000円
- 固定費小計:30万6000円
変動費
- 食費(4人・弁当の材料費を含む):8万2000円
- 日用品:1万3000円
- ガソリン代:9000円
- 医療費と薬代:6000円
- 被服費(成長に合わせた制服の買い足しを含む):1万円
- 交際費とレジャー:1万8000円
- 夫の小遣い:2万3000円
- 妻の小遣い:1万2000円
- 変動費小計:17万3000円
特別費(年間支出の月割り)
- 子ども2人の学校の集金と宿泊行事の積立(年間約12万円の月割り):1万円
- 自動車税・車検・タイヤ交換(年間約11万円の月割り):9000円
- 帰省と家族旅行と冠婚葬祭(年間約16万円の月割り):1万3000円
- 家電の買い替えと住まいの修繕(年間約8万円の月割り):7000円
- 特別費小計:3万9000円
- 支出合計:51万8000円
- 収支:−4万7000円(ボーナスで補填)
不足分は、直人の夏と冬のボーナスで埋めています。受験をしていた去年の同じ時期も、月の収支は4000円の赤字でした。ボーナスで補う形自体は、そのころから変わっていません。
4000円の赤字が4万7000円になった
変わったのは、埋めなければならない額です。月4000円の赤字なら、年に4万8000円をボーナスから回せば足ります。月4万7000円になると、年に56万4000円です。
直人のボーナスは、夏と冬をあわせて手取りで100万円ほどでした。そのうち半分以上が、月々の穴を埋めるために先に決まってしまう計算になります。
「陽菜の分は」麻里が聞きました。長女の陽菜も、颯太と同じ塾の入室テストを受けたいと言っています。
「そこは、まだ何も決めてない」
直人は明細を見ながら答えました。手取りは去年より少し増えています。増えているのに、月末に残る額は去年より減っていました。
藤沢家の教育費は、平均より軽いほうです。私立中学校の学習費総額の平均は年156万359円で、月にならせば13万円を超えます。藤沢家の月納金と定期と塾を足しても月8万8000円で、平均には届きません。
それでも、月末に残っていた額は消えました。
見えていなかったのは金額ではなかった
去年の12月に麻里が書き出した5つの費用は、どれも合格すれば本当に終わるものでした。数え間違えていたわけではありません。
見落としていたのは、その先に何が置かれるかでした。受験の塾代がなくなる場所に、授業料と定期と補習塾が入ってくる。合格は支出の終点ではなく、別の支出の起点だったのです。
学習費調査の学校外活動費の数字は、そのことを平均として示していました。私立中学校の年42万2981円は、公立中学校の年35万6018円より多いのです。入学は、塾を卒業する行事ではありませんでした。
「6年間だからね」麻里は言いました。「あと5年ある」
「うん」直人は答えました。「陽菜の話は、それを見てからにしよう」
まとめ
- 文部科学省の2023年度(令和5年度)子供の学習費調査では、中学校の学習費総額は公立が年54万2450円、私立が年156万359円で、公私の比率は1対2.9
- 学校教育費は公立が年15万761円、私立が年112万8061円で、比率は1対7.5
- 塾や習い事などの学校外活動費は公立が年35万6018円、私立が年42万2981円で、私立のほうが多い
- 私立中学校の学校外活動費のうち補助学習費は年23万6986円で、56.0%を占める
- 藤沢家では受験用の塾代の月4万5000円が消えた一方で、月納金と通学定期と補習塾で月8万8000円が加わり、教育費が月4万3000円増えた
- 月の収支は4000円の赤字から4万7000円の赤字になり、不足分はボーナスで補填している
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