刻舟求剣「昔のタイムには、まだ勝てません」

刻舟求剣「昔のタイムには、まだ勝てません」 しおり堂の処方箋 しおり堂の処方箋

8月も終わりに近い朝、商店街を抜ける風が、しおり堂の開店札を何度も壁に当てていた。栞さんは外へ出て、札のひもを少し短く結び直した。

店に戻ったところで、ドアが開いた。

ランニング用の時計を手首につけた女性が、入口で一度振り返った。坂井真帆(31歳)は、風に押されたドアを両手で閉めてから言った。

「駅前のパン屋さんの店主から、古本屋の人に聞いてみたらと言われました」

「パン屋さんは、ずいぶん広い範囲を受け持っているんですね」

「そう言われても、何を聞けばいいのか分からないんですけど」

真帆はそう言って、棚の前へ歩いた。数冊の背表紙を見てから、スマートフォンを取り出した。画面を開き、また閉じた。

「走るのを再開したんです。3か月くらい前から」

栞さんはカウンターの内側に戻った。

「23歳のころ、毎朝走っていました。5キロのいちばん速い記録が、24分38秒だったんです」

真帆はスマートフォンをもう一度開いた。古いスクリーンショットに、数字だけが大きく残っている。

「これ、23歳のころのです。いまは31分台。調子がいい日でも、まだ全然届かない」

「走るたびに、その画像を見るんですか」

「見ます。走る前にも、終わったあとにも」

真帆は画面を消した。

「別に大会に出るわけでもないんです。誰かに勝ちたいわけでもない。でも、自分の記録なので。前はできたのに、って毎回思います」

栞さんはすぐには棚へ行かなかった。

「その記録を出したころと、いまでは、何か変わりましたか」

「8年たっていますから、そりゃ、いろいろ」

「そうですよね」

それだけ言って、栞さんは棚の奥から薄い本を抜いた。

「落とした剣を探す人の話があります」

「剣ですか」

栞さんはページを開いて、真帆の前に置いた。

原典 ── 『呂氏春秋』慎大覧・察今

楚の国に、川を渡る人がいました。その剣が船の中から水へ落ちると、その人はすぐに船に刻み目をつけ、「ここが私の剣が落ちたところだ」と言いました。船が止まると、その人は刻み目をつけた場所から水に入り、剣を探しました。船はすでに進みましたが、剣は進んでいません。このように剣を探すのは、惑っているのではないでしょうか。古い法で国を治めるのも、これと同じです。時はすでに移ったのに、法は移っていません。それで国を治めるのは、難しいのではないでしょうか。

「刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)、と呼ばれる故事です」

真帆は最初からもう一度読んだ。

「船につけた印は、間違ってないんですよね。剣が落ちたのは、そこだった」

「印をつけたときは」

「ああ」

真帆はページの後半へ目を移した。

「剣の話で終わらないんですね。法の話になる」

「原典は、剣の話のあとに、時が移ったのに法が移らない、と続けています」

真帆はスマートフォンをカウンターに置いた。

「私の24分38秒が、法律ですか」

「かなり厳しい法律ですね」

真帆は声を出して笑った。それから、画面を伏せた。

「でも、昔の自分が出した数字なんです。知らない誰かの記録じゃない」

「ええ」

「だから、戻らないといけない気がするんです」

栞さんは本の端を指で押さえた。

「この人も、印を消してはいません」

「消してない」

「船が進んだだけです」

真帆はしばらく黙っていた。

「私も進んだ、ってことですか」

栞さんは答える前に、本を閉じた。

「少なくとも、23歳のころと同じ場所にはいないんじゃないでしょうか」

しおり堂の処方箋

昔の記録は、現在地ではありません。
残しておくことと、そこを基準にすることは別のことです。
船はもう、進んでいます。

真帆はスマートフォンを持ち上げた。

「このスクリーンショット、消したほうがいいですか」

「捨てなくていいと思います。剣を捨てた話ではないので」

「そういう話じゃないですもんね」

「ええ」

真帆は画像を消さずに画面を閉じた。代わりに、今日の記録を開いた。31分18秒だった。

「でも、次は30分を切りたいです」

「それは、いま決めたんですよね」

「はい」

真帆は本の裏表紙を見て、カウンターへ持っていった。

会計を終えてドアに手をかけたところで、振り返った。

「パン屋さんには、なんて報告したらいいでしょう」

「本を1冊買った、と」

「それだけですか」

「パン屋さんには、それで足りると思います」

真帆が外へ出ると、風はまだ強かった。開店札は、結び直す前より小さな幅で揺れていた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

リファレンス

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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