しおり堂の処方箋

しおり堂の処方箋

呉下の阿蒙「あの頃のあなたは もういません」

七月の終わりの朝だった。前の晩に雨が降ったせいか風はなく、空は薄い雲におおわれている。開いたばかりのしおり堂に、日差しはまだ届いていない。栞さんがカウンターでコーヒーを淹れていると、引き戸が半分だけ開いた。「おはようございます。……もう、大...
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朝三暮四「それは、損しているわけではありません」

九月に入って最初の夜だった。閉店の支度を進めていた栞の耳に、路地の向こうで唸り始めた風の音が届いた。ガラス戸を押して入ってきたのは、スーツにネクタイをきちんと締めた男だった。傘を持たずに来たらしく、肩に細かい雨粒がついていた。会社の同僚から...
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鶏鳴狗盗「その取り柄に、まだ名前がないだけです」

八月に入って最初の夕方だった。西日が路地の奥まで届いて、しおり堂の書棚を橙色に染めていた。表のどこかで打ち水をしたらしく、湿った土の匂いが、風のない空気にとどまっている。ドアが開いて、若い女が入ってきた。会社帰りらしく、トートバッグを肩にか...
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刎頸の交わり「頭を下げることは、負けではありません」

七月の昼下がり。強い日差しが路地の石畳を白く光らせ、蝉の声が途切れずに続いていた。しおり堂の引き戸が開いたのは、店の奥の柱時計が二時を回った頃だった。入ってきたのは、ポロシャツ姿の男だった。ハンカチで首筋を押さえながら、店内の涼しさにほっと...
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漁夫の利「くちばしを放した方から、先に自由になれます」

蝉の声が、通りの向こうから途切れずに続いている。七月の終わりの昼下がり。日差しは白く、路地の影だけが濃かった。しおり堂のドアが開いて、ワイシャツ姿の男が入ってきた。ネクタイは緩んでいる。ハンカチで首筋を押さえながら、男は店の涼しさに少しだけ...
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愚公移山「その山は、ひとりで動かさなくていいのです」

朝の路地に、打ち水の跡が残っていた。七月の終わり、蝉が鳴き出す前の、まだ涼しい時間である。しおり堂の戸口で、栞さんが木の看板を布で拭いていた。「あの、もう開いていますか」声をかけたのは、白いシャツの女だった。肩に通勤用の鞄を提げている。矢野...
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虎穴に入らずんば虎子を得ず「迷えるのは、入り口に立った人だけです」

夜の九時を回っても、路地の空気はまだ昼の熱を残していた。古書店「しおり堂」の窓灯りだけが、店じまいを忘れたように点いている。ガラス戸が遠慮がちに開いて、ワイシャツ姿の男が顔をのぞかせた。「まだ、いいですか」「どうぞ。閉めるのは、気が向いたと...
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胡蝶の夢「どちらのあなたも、夢ではありません」

「本当の自分がどこにもいない気がするんです」――フォロワー3万人の美容部員・美羽さん(26)が路地裏の古書店で受け取った一冊。栞さんが語る、蝶の夢の話。
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邯鄲の歩み「あなたの足は ちゃんと歩き方を覚えています」

五月の風が、路地裏の古書店の扉を揺らしていた。入ってきたのは、袖口にかすかな水の染みを残したままの、若い女だった。店内を見回して、一度だけ小さくうなずく。「あの、しおり堂さんですよね。大学の友達に聞いて」「ええ」栞さんはカウンターから顔を上...
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助長「その苗は、引っ張らなくても育ちます」

十一月の昼下がり、薄い日差しが路地の奥まで届いていた。藤原陽介(27歳)は、散歩のつもりで歩いていた。自宅から塾まで十五分の通い慣れた道とは反対の方角を、あてもなく。角を曲がったところに、古書店があった。「しおり堂」と書かれた小さな看板が、...