しおり堂の処方箋

しおり堂の処方箋

疑心暗鬼「その暗闇に、鬼はいません」

九月に入っても、朝の空気にはまだ夏の名残があった。しおり堂の扉が開いたのは、開店したばかりの、まだ店の中に前の晩の静けさが残っている時間だった。「すみません、朝早くから」入ってきたのは、スーツ姿の男だった。名刺入れを片手に持ったまま、少し落...
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覆水盆に返らず「次に何を注ぐかは、まだ選べます」

夕立が降り出した、七月の夕方だった。大野瑞穂は傘を持っておらず、慌てて店に飛び込んできた。二十九歳、広告制作会社でチームリーダーを務めている。「すみません、少し雨宿りさせてもらえますか」「ええ、どうぞ」栞さんはカップをカウンターに置いて答え...
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四面楚歌「聞こえてくる歌だけで、決めなくていいのです」

花冷えの残る、三月の夜だった。店のドアが、ためらいがちに開いた。コートを着た女が、店内を確かめるように一歩だけ入って、立ち止まった。名は平井早紀、三十四歳。転職してきたばかりの、とある会社のマネージャーだった。「あの、ここ、しおり堂さん、で...
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羹に懲りて膾を吹く「その皿は、もう冷めています」

木枯らしが吹き始めた、平日の午後だった。店のドアが開き、コートの襟を立てた男が入ってきた。手にはノートパソコンの入ったバッグを、まるで大事な荷物のように両手で抱えている。名を、高瀬悠真という。三十二歳。フリーランスでウェブデザインの仕事をし...
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蛇足「足すのは、もうそこまでです」

雪がちらついていた。閉店間際、しおり堂の戸を押し開けたのは、コートの肩を白くした初老の男だった。町の電器店を営む沢田浩一は、娘の結婚式で読むスピーチの下書きを、鞄に入れたまま歩き回っていた。「すみません、こんな時間に」栞さんは顔を上げ、「大...
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井の中の蛙「その海を、今から見に行けばいいのです」

朝の澄んだ光が、しおり堂の硝子戸を斜めに切っていた。開店したばかりの店内はまだひんやりとして、蝉の声も遠くでかすかに鳴き始めたばかりだった。その静けさの中に、一人の女性が入ってきた。二十代後半、通勤鞄を肩にかけたまま、少し落ち着かない様子で...
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画竜点睛「描き終えたら、飛んでいっていいのです」

蝉の声が路地の奥まで届く、日差しの強い昼下がりだった。日傘を差した女性が、しおり堂の前で足を止めた。ガラス戸の向こうは薄暗く、外の熱気とは違う涼しさが漂っている。少し迷ってから、彼女は戸を開けた。「いらっしゃいませ」と栞さんが声をかけた。手...
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呉越同舟「仲良くなる必要は、ありません」

その日は朝から風が強かった。しおり堂の看板が軋む音を立て、通りの木々が一斉に葉を揺らしていた。夕方、一人の女性が息を切らして店に飛び込んできた。強風に押されるように、半ば転がり込むような格好だった。コートの襟を直しながら、彼女は店の奥をぼん...
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大器晩成「まだ、仕上がっている途中なだけです」

雨上がりの夜だった。会社帰りらしいスーツ姿の男が、傘の水滴を払いながら店に入ってきた。「何かお探しですか」と栞さんは声をかけた。男は棚を眺めながら、「いや、たまたま灯りが見えたので」と答えた。それから文庫本の背表紙を一列、指でなぞっていった...
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推敲「完成は、まだ来なくていいのです」

雨が降り出したのは、駅から少し歩いたところだった。折りたたみ傘を持っていなかった彼女は、軒先を探して路地に入り、看板もろくに読まないまま、目についた店の扉を押した。古書店だった。紙とインクの匂いがした。「いらっしゃいませ」奥のカウンターから...