八月に入って最初の夕方だった。西日が路地の奥まで届いて、しおり堂の書棚を橙色に染めていた。表のどこかで打ち水をしたらしく、湿った土の匂いが、風のない空気にとどまっている。
ドアが開いて、若い女が入ってきた。会社帰りらしく、トートバッグを肩にかけたままだ。入り口で一度立ち止まり、それから店の奥まで目を走らせた。
「いらっしゃいませ」
栞さんはアイスコーヒーのグラスをカウンターに置いて言った。氷が傾いて、小さな音を立てた。
「すみません、本を買いに来たわけじゃなくて」女は言った。「駅の、いつも使わないほうの出口から出たら、こっちに来ちゃって」
「日が落ちるまで、涼んでいってください」
女は会釈して、手前の棚の前に立った。しばらく背表紙を目で追っていたが、やがて指も視線も止まった。
「私、明日までに職務経歴書を出さないといけないんです」
栞さんは何も言わずに、続きを待った。
「転職の書類なんですけど。昨日の夜、書こうとして、三行しか書けなくて」女はバッグの持ち手を握り直した。「宮下理沙、二十九歳、印刷会社の事務。以上、みたいな」
「長いんですか、その会社」
「八年です」宮下は笑おうとして失敗したような顔をした。「八年もいて、書くことがないんです。経理みたいに資格があるわけでもないし、営業みたいに数字が残るわけでもなくて。何をしてきましたかって聞かれたら、いろいろです、としか言えなくて」
栞さんはグラスの縁を指でなぞってから、カウンターの内側の棚に手を伸ばした。薄い函に入った、古い本だ。
「泥棒の話があるんですが、聞きますか」
原典 ── 『史記』孟嘗君列伝
斉の孟嘗君は、数千人の食客を養っていた。秦にとらわれ、殺されそうになったとき、王の寵姫は、助ける条件として狐白裘(狐の脇の白い毛だけで作った衣)を求めた。だが、その一着はすでに王へ献上した後だった。孟嘗君が食客たちに相談しても、誰も答えられない。末席にいた男が進み出て、夜、犬のように蔵へ忍び込み、毛皮を取り戻した。孟嘗君は釈放され、名を偽って夜半に函谷関まで逃げた。関所は一番鶏が鳴くまで開かない決まりで、追手は迫っている。そのとき、やはり下座にいた男が鶏の鳴きまねをすると、あたりの鶏がいっせいに鳴き出し、関は開いた。孟嘗君がこの二人を食客に加えたとき、ほかの客はみな、同席することを恥じたという。「鶏鳴狗盗、といいます」栞さんは言った。「鶏の鳴きまねと、こそ泥。今でも、取るに足りない芸のことを指すときに使う言葉です」
「褒め言葉じゃないんですね」
「ええ。ただ、この話には読み飛ばされやすい一行があって」栞さんは本を開いたまま、終わりのほうを指した。「二人を食客に加えたとき、ほかの客はみな、同じ席に並ぶことを恥じた、と書いてあります。二人が役に立ったのは、そのずっと後です」
宮下はカウンターに一歩近づいた。
「順番が逆なんですよ」栞さんは続けた。「役に立つと分かっていたから席を用意したのではなくて、何の役に立つのか分からないまま、末席に置いていた。あの夜まで、鶏の鳴きまねが上手いことに意味はなかったんです」
「……本人も、思っていなかったですよね。自分の鳴きまねで人の命が助かるなんて」
「思っていなかったでしょうね」
宮下はしばらく黙っていた。それから、言いにくそうに口を開いた。
「たぶん、私がやっているのも、そういうことなんです。うちの工場、印刷機の調子が悪くなる前に音が変わるんですけど、それに気づくのは私だけで。設計と営業が半年くらい口をきかなかったときも、間で伝言していたのは私で。でも、書けないじゃないですか。機械の音が分かります、って」
「書けませんね」栞さんはうなずいた。「履歴書に、鶏の鳴きまね、という欄はありませんから」
宮下は笑った。笑ってから、少し困ったような顔になった。
しおり堂の処方箋
その取り柄に、まだ名前がないだけです。「名前のついた仕事は、名前がついた時点で、もう誰かがやっています」栞さんは言った。「経理、営業、設計。募集をかければ、その名前で人が集まります。でも、機械の音が変わったことに気づく人は、募集できないんです。何と書けばいいのか、誰にも分かりませんから」
「私がいなくなったら、どうなるんですかね」
「困るでしょうね。困ってはじめて、名前がつくかもしれません」
「遅くないですか、それ」
「遅いです」栞さんはあっさり答えた。「あの鳴きまねの人も、関が開いた夜まで、ただの変わった食客でした」
宮下は声を出して笑った。西日はいつのまにか路地から引いて、店の中は少し青くなっていた。
「三行のあと、続きを書いてみます」宮下はバッグを持ち直した。「名前のないやつを、そのまま書いたら、変ですかね」
「読んだ人が名前をつけてくれるかもしれませんよ」栞さんは言った。「つけてくれなかったら、その会社には、まだ関の開く夜が来ていないだけです」
宮下はドアに手をかけて、一度だけ棚のほうを見た。それから路地へ出ていった。西日の消えた通りに、どこかの風鈴の音が届いていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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