※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
7月の終わりの日曜日、西尾徹は北関東の実家からの帰り道で、助手席の妻に携帯の画面を見せました。母の西尾君枝の通帳の記帳ページを、台所で撮ったものです。
「これ、去年の同じころ」信号で止まったときに、徹はもう1枚を出しました。
西尾亜矢は2枚を見比べて、しばらく黙っていました。
「1年で、どれくらい減ってるの」
「40万くらい」
「……お義母さんの年金って、いくらだっけ」
「月に7万8000円」
亜矢は窓の外に目を移しました。「じゃあ、足りない分を、ずっと下ろしてたってこと」
徹は返事をしませんでした。実家の台所で、君枝は「困ってないよ」とだけ言っていました。冷蔵庫の中は、たしかに困っているようには見えませんでした。困っているように見えない家計の裏で、口座だけが減っていたのです。
ひとり暮らしの高齢者は月2万9980円足りない
総務省統計局の家計調査報告(家計収支編)2025年(令和7年)平均結果によると、65歳以上の単身無職世帯の家計は、実収入が月13万1456円、可処分所得が月11万8465円でした。これに対して消費支出は月14万8445円です。
差し引きで、月2万9980円の不足になります。年金だけでは毎月3万円ほど足りず、その分を貯蓄から取り崩している。それが平均として表れている姿です。
これはあくまで平均です。年金がこの水準に届かない世帯では、不足はもっと大きくなります。君枝の年金は月7万8000円。夫が亡くなった6年前からこの額でした。消費支出を平均より2万円ほど切り詰めても、月3万円台が足りない計算になります。
不足分は、夫の死亡保険金と、2人で貯めた預金から出ていました。6年前に450万円ほどあった口座は、いま210万円台です。年に40万円ずつ減ってきた計算になります。
徹には兄弟がいません。介護が必要な状態でもなく、施設の話をするには早すぎました。残っていたのは、毎月いくらかを送るという選択だけでした。
仕送りを月4万円で始めた
「4万でどう」帰り道の後半で、徹が切り出しました。
「うちが出せるのは、それくらいだと思う」亜矢は答えました。「でも、4万って、杏の積立と同じ額だよ」
長女の西尾杏は高校1年です。大学の費用として、毎月いくらかを別の口座に移していました。金額は多くありません。それでも、始めてから1度も止めたことのない積立でした。
「止めるとは言ってない」
「うん」亜矢は言いました。「言ってないけど、どこかを止めないと出ないよね」
リアル家計簿:西尾家(夫46歳・妻44歳・子2人)
千葉県の賃貸マンション。3LDKで、駐車場は敷地内にあります。徹は住宅設備メーカーの営業所に勤め、亜矢は調剤薬局の事務のパートに週4日出ています。長女の杏は高校1年、長男の西尾大和は中学1年です。
収入
- 夫の手取り(住宅設備メーカーの営業所勤務・賞与は年2回で別):33万2000円
- 妻のパート収入(調剤薬局の事務・週4日):9万2000円
- 収入合計:42万4000円
固定費
- 家賃(3LDK・駐車場込み):11万8000円
- 通信費(スマホ4台・光回線):1万7000円
- 生命保険と医療保険(夫婦と子ども2人分):2万6000円
- 車1台(ローンと任意保険):3万4000円
- 母への仕送り:4万円
- 固定費小計:23万5000円
変動費
- 食費(4人・週1回のまとめ買いと弁当の材料):8万2000円
- 電気・ガス・水道:2万3000円
- 日用品:1万4000円
- ガソリン:9000円
- 長女の塾と模試費:2万4000円
- 長男の部活動費と歯の矯正の分割払い:8000円
- 交際費と夫婦の小遣い:3万円
- 変動費小計:19万円
特別費(年間支出の月割り)
- 自動車税と車検とタイヤ交換(年間10万8000円の月割り):9000円
- 帰省と冠婚葬祭(年間9万円の月割り):7500円
- 家電の買い替えと賃貸の更新料(年間12万円の月割り):1万円
- 特別費小計:2万6500円
支出合計と収支
- 支出合計:45万1500円
- 収支:マイナス2万7500円(ボーナスで補填)
不足分は、夏と冬のボーナスから移して埋めています。西尾家がボーナスを生活費に回すようになったのは、この夏が最初でした。
4万円で、黒字が赤字になった
仕送りを始める前、西尾家の月の収支は1万2500円の黒字でした。大きな額ではありません。それでも毎月、この分をそのまま杏の口座に移していました。
そこに月4万円の仕送りが固定費として入り、収支は月2万7500円の赤字になりました。差は、そのまま4万円です。
「積立、今月は移せてない」8月の頭に、亜矢が言いました。
「うん」
「4万って、こんなに重かったっけ」
徹は電卓を出して、給与の明細と家計簿を並べました。手取りは去年より少し増えています。増えているのに、月末に残る額はマイナスに変わっていました。
「うちが減ってるんじゃなくて、うちが出してるんだよな」徹は言いました。
「そうだけど」亜矢は言いました。「出してる先も、減ってたんだよね」
2人がこの春に話していたのは、杏の進学先の話でした。県外に出るかどうか。出るなら、下宿の費用をどう作るか。その話の前提だった月1万2500円は、いま存在しません。
見えていなかったのは金額ではなかった
君枝は、生活が苦しいとは1度も言いませんでした。電話でも、正月に帰ったときも、聞かれれば「大丈夫」と答えていました。実際、食べる物にも住む場所にも困ってはいませんでした。
困っていなかったのは、取り崩す口座があったからです。その口座の残りは、通帳を見なければ誰にも分かりません。年に40万円ずつという減り方は、月に直すと3万3000円ほどです。1か月ぶんだけを見ても、異常には見えない額でした。
家計調査が示す月2万9980円の不足も、同じ性質の数字です。1か月では小さく、6年では200万円を超えます。
「来年の夏に、また通帳を見せてもらおう」徹は言いました。「そのときに、4万でいいのか、考え直す」
「うん」亜矢は言いました。「そのときは、杏にも話そう」
まとめ
- 総務省統計局の家計調査報告(家計収支編)2025年(令和7年)平均結果では、65歳以上の単身無職世帯は実収入が月13万1456円、可処分所得が月11万8465円、消費支出が月14万8445円
- 差し引きで月2万9980円の不足となり、貯蓄の取り崩しで埋めている姿が平均として表れている
- 西尾家では、ひとり暮らしの母への仕送りを月4万円で始めた
- 仕送り前は月1万2500円の黒字。仕送り後は月2万7500円の赤字になり、不足分はボーナスで補填している
- 黒字の月1万2500円は長女の大学費用の積立に回していたため、仕送りの開始でその積立が止まった
総務省統計局 家計調査報告(家計収支編)2025年(令和7年)平均結果の概要
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