雨上がりの匂いがまだ残る夕方、一人の女性が「しおり堂」の前で足を止めた。
看板もなく、営業時間の表示もない。それでも吸い込まれるように扉を押した。
「いらっしゃいませ」と栞さんが顔を上げた。
女性は会釈だけして、文庫本の棚の前に立った。手に取っては戻し、また別の背表紙を眺める、を繰り返している。
「探しものですか」
「いえ……そういうわけじゃ、」
言葉を濁したまま、女性はしばらく黙って棚を見つめていた。栞さんはコーヒーを一口飲んで、急かさずに待った。
やがて女性がぽつりと言った。
「同期がまた昇進したんです。私はまだ主任にもなれてなくて。別に、サボってきたわけじゃないんです。でも周りと比べると、自分だけ遅れてる気がして」
栞さんは静かに頷いた。「比べてしまいますよね、どうしても」
「はい。しかも厄介なのが、自分よりも成果を出せていない同僚を見ると、少しほっとしちゃうんです。ああ、自分はまだマシだって。そんな自分が、余計に嫌になります」
栞さんは棚の奥から、古びた一冊を取り出した。表紙には『孟子』とだけ記されている。
「これ、ちょっと読んでみてください」
原典 ── 『孟子』梁恵王上
或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。(あるいは百歩にして後に止まり、あるいは五十歩にして後に止まる。五十歩をもって百歩を笑わば、則ち何如。)
戦場で百歩逃げて足を止めた者と、五十歩逃げて足を止めた者がいる。五十歩しか逃げなかった者が、百歩逃げた者を臆病者だと笑ったら、どうだろうか。孟子は梁の恵王に、この問いを投げかけた。逃げた歩数は違っても、戦わずに逃げたという点では同じではないか、と。
「戦場から50歩逃げた兵士が、100歩逃げた兵士を笑うんですよ。『お前は臆病者だ、俺はまだマシだ』って」と栞さんは続けた。「でも孟子はこう返すんです。50歩も100歩も、逃げたことに変わりはないでしょう、と」
女性は少し驚いた顔をした。
「梁の恵王という王様が、孟子に『自分はこんなに国のために尽くしているのに、なぜ人口が増えないのか』と尋ねたんです。孟子はこの喩え話で答えました。程度の差はあっても、本質は変わらない。50歩逃げた人が100歩逃げた人を笑う資格はない、と」
「……それ、私のことみたいです」
「差を測っているのは、たいてい自分だけなんですよね」と栞さんは言った。「同期と比べて焦る。同僚と比べて安心する。でもその物差し自体、あなたが握っているものなんです。手放したら、消えてしまう」
しおり堂の処方箋
誰かより遅れている、誰かよりマシ。その物差しを握っているのは、他の誰でもなく自分自身です。五十歩も百歩も、逃げた距離を比べている限り、本当に見るべきものからは目をそらしたままです。物差しを一度置いて、自分が今どこに向かっているかだけを見てみませんか。女性はしばらく本を見つめてから、小さく笑った。
「主任になれてない自分と、まだ主任になれてない同僚。50歩と100歩、みたいなものですね」
「そう思えたなら、もう十分ですよ」
女性は本を閉じ、丁寧に棚へ戻した。買わずに帰る客も、しおり堂では珍しくない。
「ありがとうございました」
そう言って店を出ていく後ろ姿を、栞さんはコーヒーを片手に見送った。
雨上がりの空気は、まだ少し湿っていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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