鶏口牛後「その肩書き、あなたを守ってはくれません」

鶏口牛後「その肩書き、あなたを守ってはくれません」アイキャッチ画像 読み物(しおり堂の処方箋)

金曜の夜、駅前の飲み会を早めに切り上げた男が、傘も差さずに小走りで一軒の古書店に駆け込んできた。

「濡れてしまいましたね」と栞さんは声をかけた。

男はハンカチで肩を拭きながら、「すみません、雨宿りです」と少し照れたように言った。名刺入れの角がジャケットのポケットから覗いている。飲み会帰りらしい。

栞さんはコーヒーを一口飲んでから、「お仕事帰りですか」と尋ねた。

「はい。今日、ちょっとした集まりがあって」

男はそう言ったきり、棚のあいだをゆっくり歩き始めた。手に取った本を戻し、また別の本を手に取る。何かを探しているというより、時間を潰しているような手つきだった。

しばらくして、彼はぽつりとこぼした。「今日、同期に誘われて。転職の相談だったんです」

栞さんは本を並べる手を止めずに、「決まった話なんですか」と尋ねた。

「はい。まだ十人くらいの、小さな会社です。そこで、新しいチームを一から任せてもらえるらしくて」

男は少し間を置いてから、続けた。「今の会社は、名前を言えば誰でも知っています。そこを辞めて、聞いたこともない会社に行くのが、正直、怖いんです。何かあったとき、今の名刺一枚が、自分を守ってくれる気がして」

栞さんは棚の奥から、古い装丁の本を一冊取り出した。

「その気持ち、わかります」と栞さんは言った。「でも、大きな看板の下にいることと、自分の足で立っていることは、少し違うのかもしれませんね」

原典 ── 『史記』蘇秦列伝

紀元前4世紀、中国の戦国時代。西の大国・秦が急速に力をつけ、東の六つの国はそれぞれ秦に土地を割譲し、従属することを迫られていた。遊説家の蘇秦(そしん)は、六国が同盟を結んで秦に対抗するべきだと説いて回った。趙の粛侯を説得する場面で、蘇秦は世間のことわざを引いてこう述べたと伝わる。「寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」――大きな牛の尻になるくらいなら、小さくとも鶏の口ばしであれ、と。この言葉に心を動かされた六国は、秦に従属するのではなく、対等な同盟を選んだ。

栞さんはページをめくりながら、続けた。

「蘇秦という人が生きた時代、秦は誰もが知っている大国でした。その他大勢として従うのは、たしかに安全に見えたはずです。でも彼は、大きなものの末端であることと、小さくても自分の意志で立つことは、まったく別の話だと考えたんですね」

男は黙って耳を傾けていた。

「あなたが今持っている名刺は」と栞さんは言った。「たしかに、あなたを守ってくれるものかもしれません。でも、それはあなた自身の力ではなく、あなたが属している場所の力です。もしその場所を離れたとき、名刺が守ってくれていたものが何だったのか、初めて分かるのかもしれません」

男は少し考えてから、「牛の尻、ですか」と苦笑した。

「大きいことが悪いわけではないんです」と栞さんは笑った。「ただ、大きさの中に埋もれることと、大きさに守られることは、似ているようで違う。あなたが怖いと感じているのは、たぶん会社の規模そのものではなくて、看板なしで立つ自分を、まだ見たことがないからだと思います」

しおり堂の処方箋

その肩書きは、あなたを守ってくれているように見えて、実は誰でも持ち得るものです。あなただけの力を試したいのなら、鶏の口ばしになる勇気を持ってください。

男はしばらく本を眺めていたが、やがて小さく頷いた。「少し、考えてみます」

外の雨は、いつの間にかやんでいた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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