胡蝶の夢「どちらのあなたも、夢ではありません」

しおり堂の処方箋

七月の路地裏に、蝉の声が降っていた。

表通りの喧騒から角をひとつ曲がっただけで、音の種類が変わる。アスファルトの照り返し、乾きかけた打ち水の跡、その先にある古い紙の匂い。古書店「しおり堂」の硝子戸は、今日は少しだけ開けてあった。

夕方五時すぎ。遠くで雷が鳴り、夕立の気配を連れて、一人の女性が入ってきた。

小柳美羽(26歳)。百貨店一階の化粧品売場に立つ美容部員である。仕事帰りらしい白のブラウスに、崩れひとつない化粧。ただ、目元だけが疲れていた。

「いらっしゃいませ」

帳場の奥から、店主の栞さんが顔を上げる。麦茶のグラスの中で、氷がからりと鳴った。

美羽は棚を見るでもなく、しばらく店の真ん中に立っていた。天井の扇風機が、ゆっくりと首を振っている。棚と棚のあいだの通路で、彼女は一度だけ深呼吸をした。古い紙の匂いを、確かめるように。それから、思い切ったように口を開いた。

「あの……変なこと、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「本当の自分って、どうやったら分かりますか」

栞さんは驚かなかった。麦茶をもう一杯注いで、丸椅子をすすめ、美羽の前にそっとグラスを置いた。

促されるでもなく、美羽は話し始めた。勤め先の売場では、三年連続で接客の表彰を受けていること。SNSに投稿する化粧の動画が評判で、フォロワーが三万人いること。画面の中の自分には、毎晩「憧れます」「美羽さんみたいになりたい」という言葉が届くこと。

「でも、家に帰ると、化粧を落として、床に座って、コンビニのおにぎりを食べてるんです。誰にも見せられない顔で。……この前、ふっと思っちゃって。私、どっちなんだろうって」

氷が鳴る。栞さんは何も言わずに、続きを待った。

「売場の私と、画面の中の私と、部屋で一人の私と、実家に帰ったときの私、全部違うんです。器用に切り替えてるつもりだったのに、最近、分からなくなって。どれかが本物なら、残りは全部作り物ってことですよね。本当の自分がどこにもいない気がして。……私、嘘つきなんでしょうか」

栞さんは、帳場の上の眼鏡をかけ直した。

「その三万人の方々は、どのあなたに憧れているんでしょうね」

「……画面の中の、作った私にです。だから余計に苦しいんです。褒められるたびに、これは私じゃないのにって思う。でも売場の私だって、お客様用の声と顔なんです。じゃあ部屋で一人でおにぎりを食べているのが素かというと……あれが本当の私だとしたら、なんだか悲しすぎる気がして」

「嘘つき」

栞さんは、その言葉だけを静かに繰り返した。それから少しの間、蝉の声だけが店を満たした。

「昔の中国に、こんな話があります。荘子という人が、蝶になった夢を見た。ひらひらと飛んで、あんまり楽しかったので、目が覚めたとき分からなくなったそうです。自分は蝶の夢を見た人間なのか、いま人間の夢を見ている蝶なのか」

「……どっちだったんですか」

「さあ。二千年以上、誰にも答えは出せていません。でも荘子は、困った顔をしていなかったと思いますよ」

栞さんは立ち上がり、古典の棚の前で足を止めた。細い指が背表紙をたどり、古い装丁の薄い一冊を抜き出す。

「答えは出せませんが、楽になる考え方なら、この中にあります」

差し出されたのは、『荘子』だった。胡蝶の夢が収められた、斉物論篇のある一冊である。

原典 ── 『荘子』斉物論篇

あるとき荘周(荘子)は、夢の中で一匹の蝶になった。ひらひらと舞い、心のままに飛んで、自分が荘周であることも忘れていた。ふと目が覚めると、まぎれもなく荘周である。はたして荘周が蝶になった夢を見たのか、それとも蝶がいま荘周になった夢を見ているのか。荘子はどちらとも決めず、これを「物化」――ものの移ろい――と呼んだ。

「荘子は、夢と現実のどちらが本物か、決めようとしませんでした。蝶であるときは、ひらひらと飛ぶことに満ち足りている。荘周であるときは、荘周として生きる。どちらかが偽物なのではなくて、ただ移り変わっていくだけ。荘子はそれを、物化と呼びました」

「……決めなくて、いいんですか」

「ええ。売場で表彰されるあなたも、画面の中で三万人に見られているあなたも、床に座っておにぎりを食べているあなたも。どれかが夢で、どれかが現実なのではなくて」

栞さんは、開いた硝子戸の外に目をやった。夕立は来ないまま、空が薄い茜色に変わり始めていた。

「全部あわせて、ひとつのあなたです」

しおり堂の処方箋

どちらのあなたも、夢ではありません。

美羽は本を胸に当てて、長いこと黙っていた。帰り際、戸口で振り返って、今日はじめて、売場のものでも画面の中のものでもない顔で笑った。

蝉の声が、少しだけ遠くなった。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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