大器晩成「まだ、仕上がっている途中なだけです」

大器晩成「まだ、仕上がっている途中なだけです」アイキャッチ画像 読み物(しおり堂の処方箋)

雨上がりの夜だった。会社帰りらしいスーツ姿の男が、傘の水滴を払いながら店に入ってきた。

「何かお探しですか」と栞さんは声をかけた。

男は棚を眺めながら、「いや、たまたま灯りが見えたので」と答えた。それから文庫本の背表紙を一列、指でなぞっていった。

「読書、お好きなんですか」

「昔はよく読んでたんですけど。最近はあんまり」

栞さんはコーヒーを一口飲んで、それ以上は聞かなかった。男はしばらく棚の前に立ったまま、何も言わずにいた。

やがて、ぽつりとこぼした。「同期がもう課長になったんですよね。後輩も、独立して会社作ったって聞きました」

栞さんは小さくうなずいた。

「自分だけ、まだ何にもなってないなって。焦ってるわけじゃないんですけど、なんか置いていかれてる感じがして」

栞さんは少し考えてから、奥の棚に手を伸ばした。古びた、薄い漢文の本だった。

原典 ── 『老子』四十一章

大方無隅、大器晩成、大音希声、大象無形
(大きな四角形には角がなく、大きな器は完成に時間がかかり、大きな音はかえって聞こえにくく、大きな形はかえって姿をなさない)

「大きな器は、仕上がるまでに時間がかかるって話です」と栞さんは言った。「急いで焼いた陶器って、ひびが入りやすいんですよ。ゆっくり焼いたものほど、丈夫に仕上がる」

男は本を受け取って、少し黙った。

「でも、待ってれば勝手に仕上がるわけじゃないですよね」と男は言った。「僕、正直ここ最近、何もしてないんです。焦る気持ちはあるのに、行動には移せてなくて」

栞さんはうなずいた。「そこは、この言葉の続きにも書いてあるんですよ」

しおり堂の処方箋

大きな器ほど、仕上がりに時間がかかる。それは怠けていい理由ではなく、時間をかける価値があるという意味です。焼き上がりの早さで、器の大きさは測れません。

「早く形になったものが、必ずしも長持ちするとは限らない。でも、形にならないまま何もしないでいると、それはただの停滞になってしまう。器が大きいことと、何もしなくていいことは、別の話なんです」

男は本を見つめたまま、しばらく黙っていた。それから、少し笑った。「じゃあ、今からでも遅くないってことですか」

「遅いかどうかを決めるのは、他人の速度じゃないですよ」

男は本を胸に抱えて、頭を下げた。「持ち帰って、ちゃんと読んでみます」

栞さんは何も言わず、ただ小さく頷いた。

男が出ていったあと、店にはまた雨の匂いだけが残った。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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