疑心暗鬼「その暗闇に、鬼はいません」

しおり堂の処方箋

九月に入っても、朝の空気にはまだ夏の名残があった。しおり堂の扉が開いたのは、開店したばかりの、まだ店の中に前の晩の静けさが残っている時間だった。

「すみません、朝早くから」

入ってきたのは、スーツ姿の男だった。名刺入れを片手に持ったまま、少し落ち着かない様子で店内を見回している。

「取引先の方から伺ったんです。ここに来ると、少し頭が整理されるって」栞さんがカウンターの内側から顔を上げると、皆川隆之(42歳)はそう言って軽く頭を下げた。

「それはそれは」栞さんはカップをカウンターに置いた。「何かお探しですか」

皆川はしばらく本棚の背表紙を目で追っていたが、やがて手を止めた。「探しているというか……最近、ちょっと人の目が気になって」

「人の目、ですか」

「はい」皆川は少し言いよどんでから、続けた。「うちの課の若手が、最近やたらとひそひそ話をするんです。僕が近づくと急に話をやめたり、パソコンの画面を隠すように閉じたり」

栞さんは黙って続きを促した。

「先週、たまたま『課長の評判、あまりよくないらしいよ』って誰かが言っているのを、廊下の向こうで聞いてしまって。それ以来、会議中の沈黙も、休憩室での笑い声も、全部自分のことを言われているように感じてしまうんです。仕事にも身が入らなくて」

皆川はそこまで言って、少し恥ずかしそうに笑った。「情けない話なんですけど」

栞さんは少し考えてから、棚の奥に手を伸ばした。古い装丁の、薄い本を一冊取り出す。

原典 ── 『列子』説符篇(南宋・林希逸『列子鬳斎口義』所収)

昔、ある男が斧をなくした。男は、隣に住む息子が盗んだのではないかと疑い始める。すると不思議なことに、その息子の歩き方も、顔つきも、話し方も、何をしていても、すべてが「いかにも盗んだ者らしく」見えてくる。ところが後日、男は谷を掘り返していたときに、なくした斧を見つけた。その後、再び隣の息子に会っても、もう何一つ怪しいところは見えなかった。この故事に注釈をつけた学者は、こう言い添えた。「疑心、暗鬼を生ず」。心に疑いを抱けば、暗闇の中に鬼の姿さえ見えてくる、という意味である。

「斧をなくした人の話です」栞さんは本を軽く開きながら言った。「疑いの目で見ると、相手のすることなすこと、全部が怪しく見えてしまう。表情も、歩き方も、声のトーンまでも。でも実際に変わったのは、相手じゃなくて、自分の見方なんですよね」

「……全部、自分の見方の問題だって言うんですか」皆川は少し眉を寄せた。「でも、実際にひそひそ話をしているのは事実ですし、僕の評判の話をしているのを聞いたのも事実です」

「ええ、それは事実だと思います」栞さんはうなずいた。「でも、その一つの事実から、その後に見た沈黙も、笑い声も、パソコンを閉じる仕草も、全部『自分への悪意』という同じ色で塗ってしまってはいませんか。若手がパソコンを閉じるのは、単に画面を見られたくない別の理由かもしれない。休憩室の笑い声も、まったく関係のない話かもしれない」

皆川は何も言わずに、本の続きに目を落とした。

「疑ってはいけない、と言いたいわけじゃないんです」栞さんは続けた。「一度気になったことを、確かめもせずに全部『きっとそうだ』と決めつけてしまうと、見える景色そのものが暗く塗り変わってしまう。それが怖いところなんです」

しおり堂の処方箋

その暗闇に、鬼はいません。

「暗闇に、鬼はいない……」皆川はその言葉を小さく繰り返した。

「暗い部屋に一人でいると、何でもないカーテンの揺れが人影に見えたりしますよね」栞さんは言った。「でも電気をつければ、それはただのカーテンです。皆川さんが今見ているものも、たぶんそれに近いんじゃないでしょうか。斧が見つかるまで待つ必要はないんです。電気をつける方法は、もっと単純にあります」

「単純に、というと」

「一度、直接確かめてみることです。噂の出どころを問い詰めるという意味じゃなくて、たとえばその若手に、普通に仕事の話を振ってみる。反応が普段と変わらなければ、それだけで暗闇はだいぶ薄まります」

皆川は少し黙ったあと、小さく息を吐いた。「確かに、確かめもせずに、勝手に相手の態度まで作り上げていたのかもしれません」

「疑心が生む鬼は、本人にしか見えないんです」栞さんは静かに言った。「だからこそ、自分で電気をつけるしかない」

皆川はしばらく本の表紙を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。「今日、帰ったら、あの若手に普通に話しかけてみます。何でもないことのように」

「それがいいと思います」

皆川は軽く会釈をして、扉のほうへ歩き出した。ドアベルが鳴ったとき、外の光は開店直後よりも少しだけ強くなっていた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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