夜の九時を回っても、路地の空気はまだ昼の熱を残していた。古書店「しおり堂」の窓灯りだけが、店じまいを忘れたように点いている。
ガラス戸が遠慮がちに開いて、ワイシャツ姿の男が顔をのぞかせた。「まだ、いいですか」
「どうぞ。閉めるのは、気が向いたときだけなので」栞さんはカウンターの奥で、コーヒーカップを置いて答えた。
男は高村正和(45歳)。住宅設備メーカーの営業課長。今夜も残業帰りで、駅からの道をわざわざ遠回りして、この路地に入った。「妻から聞いたんです。悩んでいるとき、一冊選んでもらうと、少し楽になる店があるって」高村は少し笑った。「半信半疑ですけど」
「本は売るほどありますよ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。
高村はしばらく、棚の背表紙を眺めていた。ビジネス書の棚の前で足が止まり、また離れる。それを二度繰り返してから、ぽつりと言った。
「大学時代の後輩に、誘われていまして。二人で会社をやらないかと。住宅設備の点検の仕事です。……返事を、もう三週間も延ばしているんです」
「三週間」
「ええ。家のローンもありますし、娘は来年受験ですし。断る理由なら、いくらでも並べられるんです。でも断りの連絡を打とうとすると、指が止まる。かといって、受けますとも書けない。毎晩、送らない下書きだけが増えていって」高村は首の後ろを押さえた。「自分がこんなに決められない人間だとは、思いませんでした」
栞さんは少し考えてから、奥の棚に歩いていった。戻ってきた手には、箱入りの古い本があった。中国の歴史書の列伝を集めた一冊で、箱の角は柔らかく擦り切れている。栞さんはページを繰り、ある伝の途中で手を止めて、本を高村のほうへ向けた。
原典 ── 『後漢書』班超伝
後漢の班超(はんちょう)は、西域の鄯善(ぜんぜん)という国へ、わずか三十六人の部下とともに使者として赴いた。当初、王は一行を手厚くもてなしたが、北の匈奴(きょうど)からも使者が到着すると、その態度は急によそよそしくなった。このまま匈奴側に引き渡されれば、全員の命はない。追い詰められた班超は部下を集めて言った。「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」──虎の住む穴に入らなければ、虎の子を手に入れることはできない。その夜、一行は匈奴の使者の宿営を急襲し、窮地を脱した。鄯善の王は後漢に従うことを誓ったという。「虎穴に入らずんば虎子を得ず。危険を避けていては、大きなものは手に入らない、という意味で知られている言葉です」栞さんは開いたページに目を落としたまま言った。「勇ましい言葉に聞こえますよね。無謀のすすめのようにも」
「実際、そうなんじゃないですか。私にはとても、こんな思い切りは」
「でも班超は、もともと勇ましい人ではなかったんです。若い頃は役所で、書類をひたすら書き写す仕事をしていました。男子たるもの、こんなところで筆を写している場合ではない、と筆を投げ出して嘆いた話が残っているくらいで」栞さんはカップを引き寄せた。「それにこの言葉、よく読むと、穴の話ではないんですよね」
「穴の話では、ない」
「班超が見ていたのは、穴の暗さではなくて、虎子のほうです。自分が何を取りに行くのか。それがはっきりしていたから、穴に入れた。順番が逆なんです。入る勇気があったから取れたのではなくて、取りたいものが見えていたから、入れた」
高村は黙って、開かれたページの古い活字を見ていた。
「高村さんの虎子は、何ですか」
「……独立、だと思っていました。でも今、すぐに答えられませんでした」
「三週間迷っていらっしゃるのは、決められないからではなくて、取りたいものがまだ言葉になっていないからかもしれませんよ」栞さんは、しおりを一枚、ページに挟んだ。「それから、これは私の勝手な読みですけれど」
しおり堂の処方箋
迷えるのは、入り口に立った人だけです。「穴の入り口まで来ていない人は、そもそも迷いません。誘いを受けた日から三週間、高村さんはずっと入り口に立って、中をのぞいてきたわけでしょう。それは決められなかった三週間ではなくて、もう歩いてきた三週間です」
「迷っていること自体は、恥ずかしいことではないと」
「ええ。それに、虎子が何かを確かめてから、入らないと決めるのも、立派な決め方ですよ。入り口まで行った人の『入らない』は、逃げとは違いますから」
高村は長く息を吐いた。それから、少しだけ姿勢を伸ばした。「後輩に、返事の前に一度、ちゃんと聞いてみます。お前とやる仕事で、俺は何が欲しいんだったかな、って。……この本、いただけますか」
会計を済ませて、高村は夜の路地へ出ていった。その歩みは、来たときより少しだけ速かった。栞さんは冷めたコーヒーを一口飲んで、次のしおりを選び始めた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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